チフネの日記
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2012年04月07日(土) |
lost 悲劇編 31.跡部景吾 |
朝から浮かない顔をしている跡部の元へ、ジローが「おはよう」と挨拶しながら寄って来た。
「訊くまでも無いと思うけど、昨日も駄目だったんだね」 「わかっているなら、言うな。返事するのも面倒くせえ」 溜息交じりでそう言うと、「本当にいつになったら思い出してくれるのかなあ」とジローは寂しそうな声を出した。
リョーマが記憶を失って、悲しんでいるのは跡部だけじゃない。 家族は勿論、青学の部員達や、関わって来た人々はどうしてという思いを抱いている。 ジローもその内の一人だ。 跡部とリョーマが付き合い始めたことを知った時、「俺にも紹介してー!」と真っ先に言い出した。 試合を見て、才能に驚き、そしてファンになったと屈託の無い笑顔でリョーマに懐いた。 馴れ馴れしい態度に気を悪くするんじゃないかと跡部はハラハラしたが、 意外ににもリョーマは飛びついて来たジローに苦笑しつつも、されるがままになっていた。 「菊丸先輩もこんな風にくっ付いてくるし、だからこの人のこともそこまで気にならないよ」 菊丸にいつも触れさせているのかとムカついたが、狭量なところを見せるのは格好悪いと思い黙っていた。 それからちょくちょくジローは「リョーマに会わせて」とデートにも引っ付いて来るようになり、 三人でテニスしたり食事をしたりするようになった。 多分、氷帝のメンバーの中でリョーマと一番親しくしていたのはジローだろう。 他の部員とも何度かテニスをしたが、跡部が焼きもちを焼くくらい二人の距離は近かった。 最も無邪気に纏わり付いて来るジローを、リョーマが上手く相手しているという図だったから、ライバルになるとかそういう心配はしていなかった。
記憶喪失になったと聞いて、ジローもリョーマの所へ直ぐに向かった。 「どうして忘れちゃったの」と涙を零すジローに、流石にリョーマも困った顔をしていた。 しかし時間が経過するにつれて、「忘れたもんはしょうがないでしょ」と頑な態度に変化していった。 そんなリョーマにジローはショックを受けて、それから訪問を控えるようになった。 誰かから邪険にされることに慣れていない分、辛かったのだろう。 跡部もそれ以降、無理に会わせようとはしなかった。
「いつかは思い出すだろ」 自分に言い聞かせるように言った跡部に、「でも、もしもだよ?」とジローは俯いたまま問い掛けを口にする。 「もしも、ずっとこのまま思い出さなかったら?跡部はどうするの。 今の跡部、見ていて辛そうだよ。俺、心配なんだ」
本気でそう言ってくれているのはわかる。 リョーマとも友達だったが、ジローはこの二年以上遅刻したり寝こけていた自分の面倒を見てくれた跡部を特別な存在だと思っている。 大切な友人だと認めてくれているジローに心配を掛けている。 それ程までに今の自分は酷い顔をしているのだろうか?
精一杯の虚勢を張って、「その時はまた俺様に惚れさせてみせる」と答える。 「俺様くらいのいい男に、あいつが靡かねえはずないだろ。 失った時間は取り戻せねえが、やり直しは出来る。もう一度最初から始めるのも、悪くない」 「そっか。そうだよね!」
跡部なら大丈夫!と笑うジローの脇を、跡部は当たり前だと肘で軽く小突く。
そうは言ったけど、本当は自信なんてない。 もう一度好きになってもらえる保証なんてどこにもない。 人の心を思い通りに動かすなんて、そんなこと出来ないからだ。
『じゃあ、俺の誕生日にはリクエストしたもの全部持って来てもらおうかな。 イヴの日に俺を独り占めしたいんでしょ?その位やって当然だよね』
生意気そうに笑うリョーマに、その位お安い御用だと返事した。 リョーマの誕生日を一緒に祝えるのなら、なんだって叶えてやりたいと思った。 それはまだ付き合い始めて間もない頃の会話だった。 誕生日はいつなのか聞いて、そして直ぐに予約を入れた、幸せだった頃の会話だ。 覚えているのは、跡部だけだ。 それでも特別な日を他の人と過ごして欲しくなくて、 「24日は一緒にいてくれないか」と口にした。
「24日?今月の?」」 「そうだ」
季節は冬になっていた。 12月に入っても、リョーマの記憶は戻らないままだった。 本人はもうこのままでいることを望み、学校にも普通に通っている。 以前と違うのもテニス部に所属していないということだ。 ど素人の自分がいても迷惑になるからというのが表向きの理由だったが、 今のリョーマはテニスをすることを苦痛に思っている。 周囲の期待に応えられない、失望ばかりさせている。それが嫌でテニスから逃げている。 もうラケットを握りたくないと訴えて来たんだと南次郎からも、そう聞いている。 跡部はそれでもまだ受け入れることが出来ずに、越前家に通っていた。 しかし会えない日の方が今は多くなっていた。 跡部を避けるようにして、リョーマの帰宅は毎日遅くなっている。 会っている相手は千石と、その友人達というのも知っていた。 ゲームやカラオケ、ボーリング等、千石はリョーマの気晴らしに付き合っている。 たまに女の子もナンパするんだよと聞かされた時はさすがに頭に血が昇って千石の胸倉を掴んでしまった。 しかし千石は「だってリョーマがしたいって言ったんだよ?俺ばっかり女の子と遊ぶのは不公平だって。だから声掛けただけなのに、何が悪いの。 あ、だけど面倒に巻き込まれないかどうか、ちゃんと見張っているよ。本当だって」と説明をした。
リョーマが女の子をナンパしたいと言った? デタラメぬかすなと怒鳴ったが、千石は平然としていた。 それが真実だというように、そしていつまで目を背けているんだという顔をしていた。 リョーマは変わっている。記憶を失くす前とは別人だと、跡部だけが認められないでいる。
だけど24日だけは千石じゃなく自分と一緒に過ごして欲しい。 そんな思いで誘いを口にした跡部に、「無理。予定入っているから」とリョーマはあっさり断った。 そしてまた携帯を取り出し、操作を始める。 帰れという無言の拒否の態度だ。
二人しか居ない家で、携帯のボタンを打つ音だけが聞こえる。 今日は南次郎も従姉も不在だ。 母親はいつものように仕事で帰って来るのは遅いと知っている。 たまたま千石がデートとかで、予定が合わなかったのだろう。 家に居たリョーマは跡部の訪問にまたかという顔はしたけど、 心配して様子を見に来ているのは知っているので、追い返すことはしないで部屋に通してくれた。 いつものリョーマの自室内で、向き合う形で座ってはいるが、会話はそれだけで終了してしまった。
リョーマの方ではこのまま跡部が帰ることを望んでいるのだろう。 だが跡部は引き下がらず「誰かと約束でもしているのか?」と食い下がった。 「まあ、そんなところ」 携帯を打ちながら、リョーマが答える。
付き合っていた頃も愛想などなく、会話が続かないこともしばしばあった。 だけどこんなあからさまに跡部を空気のように扱うことは一度も無かった。 最後に顔を見合わせて話をしたのはいつだっただろうと考える。 もう思い出せない。 笑顔だって忘れてしまった。
「千石と約束しているのか?あいつの仲間と一緒に過ごすのかよ」 リョーマと約束をする相手となると千石くらいしか思いつかない。 推測が当たったとしても、奴と二人きりということは考えにくい。千石ならそういうイベントは女子も何人か呼んで過ごすことになるだろう。 そんな連中よりも、自分の方を優先して欲しい。 忘れてしまっているとはいえ、先に約束したのはこっちだ。 じっとリョーマの横顔を見詰めると、 「何?俺が誰と約束しようが勝手でしょ」と言われる。
「あんたも別の相手を見付けたら?本当はもうわかっているんでしょ」 「何の話だ」 「俺の記憶はもう戻らないってこと。 そしてあんたと前の関係に戻ることもない。だって無理だよ。好きになれない。 以前の俺がどんなだったか、これっぽっちも覚えていないし、俺は普通に女の子が好きだよ」
リョーマの言葉が矢のように心に刺さり、傷付いていく。 認めまいとして、ずっと目を逸らし続けていた。 このままリョーマの元に通っても、何も変わらない、記憶は戻らない。好きになってもらうこともない。 わかっていたけど、本人から突きつけられるとかなり堪えるものがある。
「あんたならすぐに他にいい人見付けられるよ。噂で聞いたけど、かなりもてるんだって? いつまでも俺になんかに縛られていないで、別の人を」 「やめろ」 「え」 「代わりを見付けろなんて言うな。 俺にとってお前は、越前リョーマは、掛け替えの無い人だった。 他になんて目を向けられるわけないだろ!」
リョーマの手から携帯を叩き落し、ぎゅっと両手で握り締める。 他なんて考えられない位、リョーマのことが好きだった。 生意気で、口が悪くて、言うことなんて聞かなくて。 だけど決して諦めない強さを持っていて、懸命に強敵に立ち向かい、最後には必ず勝利を掴んでいた。 恐れ知らずで大胆な行動も、全部好きだった。 リョーマといると、自分はもっと成長していける気がしていた。 いつかは家を継がなければいけない、テニスを諦める日が来ると半ば受け入れた気持ちに、風穴を開けてくれた。 テニスを諦めることなんてない。困難が待ってても、望む道を歩んで行けばいい。 リョーマなら絶対に諦めないはずだ。 そんな風に自分の心を変えた人を、どうして忘れることが出来るのだろう。
しかし目の前にいるリョーマは、以前とは違っていた。
「悪いけど、俺達はもう会わない方がいいと思う。 今まで心配してここに通ってくれたことを考えると、ハッキリ言えなかったけど……。 俺はあんたが好きだった越前リョーマじゃないよ。もう、別の道を歩んでいるんだ。 テニスだって、もう二度とすることはない。 ラケットを持っても何も出来ないし、やりたいとも思わない」
その瞬間、跡部の中で何かが切れた。
「何して…!?」 リョーマの声が聞こえたが、構わず床に小さな体を押し倒す。 暴れる前に両手を封じ込め、足の間に体を割り込ませる。
「今言ったのは、嘘だよな?お前がテニスをやめるなんてあり得ないだろ。 俺を負かしておいて、勝ち逃げかよ。お前はそんな奴じゃない。 何度だって挑んでみろ、また負かしてやるって笑うはずだ。そうだろ。なあ、リョーマ」
やめろとか放せとか叫ぶリョーマを無視して、シャツを引き裂く。 こんなに抵抗するなんて、やっぱりこいつは偽物だ。 本物なら少し困った顔をしても、跡部を受け入れてくれる。 好きだと言うと、恥かしそうに目元を赤くする。 俺が知っているリョーマなら、そうして抱き締め返してくるはずだ。 じゃあ、ここにいるこいつは誰だ? リョーマの顔をした別人なのか。 だったら本物が戻ってくるように、いつもしていることをして思い出させてやるべきだろう。
付き合っている時に、リョーマに無体を働いたことは一度だって無かった。 嫌われたくない。傷付けたくない。 だからいつも一つ一つ確認しながら触れていた。嫌だと言ったら、すぐに手を引っ込めるつもりだった。 あまりに慎重な手つきに「女の子じゃないんだから」とリョーマは呆れながら笑っていた。 今、やっているのは全く反対の行動だ。 だけどそれに興奮している自分にも気付いていた。 お前がいつまでも素直にならないから、こんな目に合うんだ。 泣きながらやめてくれと訴えるリョーマを、そんな傲慢な気持ちで見下ろしていた。
結局、状況を理解して拘束していた手を解いたのは、何もかも終わってからのことだった。
「越前、大丈夫か?」
ぐったりと横たわったままのリョーマに、さすがにまずいと気付いた。 久し振りだったのに余裕も何もなく無理矢理捻じ込んだから、リョーマの負担は相当なものだったはずだ。起き上がれないのも仕方無い。 医者を呼ぶべきかと焦りながら肩に触れると、「触るな!」と手を払われる。 爪先が跡部の手の甲を引っかき、痛みが走った。
「あんた、最低だよ」
声は掠れていて、目元は涙で濡れている。 迫力のない姿だが、リョーマの目だけにははっきりとした跡部への憎しみが溢れていた。 それに怯み、手を引っ込めてしまう。
「出てって。そして二度と俺の前に姿を現すな。顔も見たくない」 「越前、」 「出てけよ!警察呼ばれたいの? あんた、異常だよ。思い通りにならないからってあんなことするわけ!? こんなの酷い……。嫌だって言ったのに」 「悪かった。お前の気持ちを踏みにじるような真似をして、すまなかったと思っている」 謝罪を口にしてもどうにもならないことはわかっていた。 それでも言わずにはいられなかった。 だが、リョーマの怒りは収まらない。 「謝ればそれで済むと思ってんの? もう、嫌だ……。あんたなんて大嫌いだ。 きっと以前の俺だって、仕方なく付き合っていたんじゃないの。 そうやってなんでも思い通りになると思ったら、大間違いだよ。 俺はあんたを絶対に許さない!」
殺気に満ちた目でそう言われ、もう取り返しのつかないと知った。 それ以上糾弾されるのが怖くて、荷物を持って急いでリョーマの部屋から出て行った。
それが、記憶を失くしたリョーマとの最後の会話になる。
自分の罪に怯え、責められることを恐れて、外に出ることさえ怖かったあの頃。 リョーマと会うのは、もう止めよう、諦めようと決めた。
「たしか、その頃だったよな。 ジロー、家に閉じこもったままの俺の所に来て、リョーマの所に行かないのかって訊いたのは。 あの時、自分のやった事を認めるのが怖くて、リョーマに拒絶されて傷付いたという嘘の理由を口にした。 自分が被害者だという風に装えば、もうリョーマのことは諦めればいい、行く必要はないとお前ならそう言ってくれると思っていた。 俺はそれに頷いて、いかにも可哀相な捨てられた恋人を演じていたんだ。 悪いのは、忘れてしまったリョーマじゃない。 先にあいつの信頼を裏切った、俺の方だ。 なのに罪と向き合うのが怖くて、俺は全部なかったことにしようとした。 あかりと付き合うことを決めたのも、リョーマを、あの一件を忘れる為だ。そうしてなんでも無かったようにして生きていこうと思ってた。 しかも記憶を取り戻したリョーマから会いたいと言われた時、 真っ先に思ったのはあの一件を覚えているかどうかだった。 記憶喪失だった間のことを忘れていたあいつを見て、俺はほっとした。もう責められずに済むってな。 最低だろ。 だから、ジロー。お前がリョーマを嫌うのは間違っている。 怒りを向けるのなら、俺の方だ。 俺はあいつにしたことへのせめてもの償いとして、助けてやりたいと思っている。 そんなエゴで動いているような奴だ」
全部聞き終えても、ジローは何も言わない。 顔色を失ったまま、目を伏せている。 今までずっと騙されていたことを知ったショックからか。 これで友情が終わったとしても仕方無いと、跡部は目線を外した。
2012年04月06日(金) |
lost 悲劇編 30.跡部景吾 |
こちらの姿を見つけた途端、ジローは逃げ出すかもしれない。 もしそうなったら全力で追いかけて捕まえてやろうと跡部は考えていた。 今日こそは部活に出てもらう。 勝手に拗ねて練習を放り出すなんて、本来はあるまじきことだ。 後輩にも示しがつかない。 抵抗したらガツンと言ってやると意気込んで、早朝からジローの家の前に車を付けて出て来るのを待っていた。 しかし意外なことにジローhこちらを見て、走って車まで寄って来た。 窓を開けた跡部に「おはよう」と笑顔まで浮かべて挨拶をする。
「迎えに来てくれたの?うれC。 昨日、母さんから跡部が来たって聞いたよ。だから、いるんじゃないかなーと思っていた」 「そうかよ。だったら車に乗れ。部活に行くぞ」 「うん!」
素直に乗って来たジローに拍子抜けしたが、同時に腹も立った。 散々振り回しておいて気が済んだからとあっさり部活に出るのか。 今日まで悩んだ自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。 一つここは説教してやろうと口を開こうとしたら、 「もう、あの子に会う必要はないからね」と先にジローに言われてしまう。
「は?一体何の話だ」 「わかってるくせに。越前リョーマだよ。 俺の方からも跡部に関わるなって釘を刺しておいた。 だからもういいんだ。跡部があの子の為に何かしてやることなんてないよ」
ニコニコと笑顔で言うジローに、跡部は何の冗談かと思った。 しかし笑っていない目を見て、本気で言っているのだと気付いた。 おそらくジローなりに自分のことを心配してくれているのだろう。 二年前、ずっと落ち込んでいた状態を知っているからこそ、二度と同じことを繰り返さないように、原因であるリョーマを遠ざけようとしている。 それはわかる。わかるけど、ここで引くわけにはいかない。 冷静になろうと軽く息を吐いてから、「ジロー」と呼び掛ける。
「釘を刺したってどういうことだ?お前、越前といつ会ったんだ」 「んー、昨日。向こうもわかったって言っていた。 跡部が勝手に関わって来るだけだとか、ごちゃごちゃ言っていたけど、 もう会わないでねってお願いしといたから」 「だからどうしてそんな勝手な真似をするんだ。 越前が今大変なことに巻き込まれていると知っているだろう? なのに追い詰めるような真似は」 「だって跡部があの子と会ったりするから!」
ジローは大声を上げて、自分の正当性を主張した。
「もう会いたくない、顔も見たくないって二年前そう言ったのは跡部だよ? あれだけ拒絶された相手になんで関わろうとするの。 記憶が戻ったからって全部元に戻るわけじゃない。跡部だってわかっているんでしょ」 「……わかってる」 頷いて「だけど」と付け加える。 「それでも覚えの無い噂に傷付いているあいつを放っておけない。 俺だったら力になれる。解決することだって出来るかもしれない。 わかっていて放っておくことはできねえよ」 「だから何で跡部がそこまでするの!?」
どうしてわかってくれないんだと起こったように言うジローに、 跡部は目線を下げる。 これ以上黙っていることは出来ない。 そうでないとジローはこの先もずっとリョーマを敵視して、 また酷いことを本人に言うかもしれない。 話した結果、大切な友人を失うことになるかもしれないが、仕方無い。 嘘をついた自分が悪いのだ。
「ジロー」 「俺、間違ってなんてないんだからね!」 「そうじゃない。 お前に話したいことがあるだけだ。 長くなるから部活が終わってから改めて話したい」 「何?説教ならいらないよ」 「違う。けど大事なことだ。頼む」
少し頭を下げて言うと、さすがにジローもそれまでの勢いを引っ込めて、 「そこまで言うんだったら」と了承してくれた。 さすがに部活をさぼって話をするのはマズイので、 落ち着かないが終わってからにするしかない。
(それに、俺にも心の準備が必要だからな)
あの時のことは誰にも言うつもりはなかった。 全部リョーマの所為にして、そうして心を守っていたというのは言い訳に過ぎない。 もう嘘は止めにしようと、震えそうになる手を押さえて自分に言い聞かせた。
「それで話っていうのは一体なんなの?」 跡部の自宅に入るなり、ジローは急かすようにそう言った。 部活が終わった後も、車の中でもずっと無言だったのは二人きりになるまで尋ねないと決めていたからだろう。 ジローなりいこの話が何か重大なものだとわかっているようだ。 「座れよ。焦らなくても話してやるから」 ソファに向かい合わせになって座る。 そして跡部は語り始めた。 二年前、何があったのか。ずっと黙っていたことだ。
全国大会決勝日に、リョーマは記憶を失った。 軽井沢まで迎えに行った跡部に対して、「どちら様ですか?」とそう言ったのだ。 衝撃を受けたが、今はそれどころではない。 何とか会場までリョーマを連れていかなくてはいけない。その為に、軽井沢まで来た。 だって会場には立海三連覇阻もうと、ここまで戦ってきた青学の部員達が待っている。 それを差し置いてリョーマの記憶を取り戻したい、自分のことを思い出させたいなどと言えるはずがない。 だからその場では取り乱すような真似はしなかった。 本当はリョーマの肩を揺さぶり、「何故俺を忘れた」と詰め寄りたかったが、ぐっと抑えた。
この時はまだ、跡部には余裕があった。 記憶をなくしたとはいえ、いずれは思い出すだろう。リョーマがこのまま自分を忘れているはずがない。 二人の絆はそんなに脆いものではないと思っていた。
しかし。 皆がどんなに努力しても大会中にkリョーマの記憶が戻ることはなく、青学は敗退し、 そのままリョーマはテニスから離れて行った。
もしかしてこのままずっと思い出さないままなんじゃないだろうかという恐怖が、じわじわと跡部の心を侵食し始めた。
{また来たんすか。毎回何の変わりもないのにご苦労っすね」
記憶を失くした直後のリョーマは無垢な子供のような口調だった。 だが連日テニスを続けろとか、思い出せとか周囲から言われ続けた結果、また生意気な口の利き方に戻っている。 それでいて他のことは忘れたっまというのだから、理不尽な話だ。
青学の部員も初めの頃は毎日リョーマの家に来ていて、跡部と顔を合わせることもあったのだが、 最近はそうでもなくなっている。 段々と話をしても無駄だと思うようになって来たのかもしれない。 しかし跡部は諦めるつもりなどなかった。 用事が入った時以外は、リョーマの元へと通っていた。 当の本人は迷惑そうにしているが、知ったことかと無視して押し掛けていた。
「変わりなくたって構わねえよ。お前に会いたいから来るだけだ」 「あ、そ」 溜息をついてリョーマは鞄から携帯を取り出して、メールを打ち始める。 帰れという意思表示をしても、跡部はそれに凹むことなく黙って打ち終わるのを待った。 根競べ、みたいなものだ。 リョーマはできるだけ跡部と会話をしたくない。 それで相手にしないと言う態度に出る。 だが跡部はそんなことで引くはずもなかった。 付き合う前もこんな風に頑なだった。 冷たくされても、どうってことはない。 リョーマが思い出すまで、諦めるつもりはなかった。 ただ少し、寂しいだけだ。
「相手は千石か?」 ずっとメールを打っているリョーマに話し掛けると、 「うん、まあ……」と目を背けたまま答えが返って来る。 また千石かと苦々しい思いで跡部は眉を寄せた。 どういうわけか自分の知らない所で千石とリョーマは仲良くなっていた。しかも着々と距離が縮んでいる。 以前跡部は、千石に何の真似だと詰め寄った。 企みでもあるのかと言ったら、あの飄々とした態度で「ただの友達だよ?越前君が暇そうに歩いているのを見て、どうしたのって声を掛けたら仲良くなったんだ」と説明した。 「皆にテニスしろって言われるのが嫌なんだって。だから気晴らしになればと思って、一緒に遊んでいるだけ。 跡部君が心配するようなことは何もないよ!大体、俺、彼女いるし」 どこまでが本当かわからない。 だけどリョーマの方でも「千石さんとは友達だよ。そんなこといちいちあんたに干渉されることじゃないと思うけど」と言われた。 一応、そういう意味の心配は何も無いらしい。 でも、気に入らない。 恋人だった自分のことは綺麗さっぱり忘れたくせに、他の男に懐くなんて割り切れるものではない。 出来るなら千石といる時間を、自分の方に回して欲しい。 遊びたいのならどこにでも連れて行ってやるのに。 誘いの言葉を掛けようと距離を縮めると、リョーマは「な、何?」と慌てたように体を引いた。
「……何でもねえよ。今日はもう帰る」 「あ、そう」
ほっとしたような表情に、どうしてそんな顔するんだと苛立ちが込み上げる。 しかしそれは口に出さず、跡部は立ち上がってリョーマの部屋を出た。 階下にいたリョーマの父親に一言挨拶だけすると、 「今日もありがとうな」とどこか諦めたような目でそう言われた。 肉親でもリョーマのリョーマの記憶は戻らないかもしれないと思っているようだ。
(でも俺は、諦めたりしない) 一度掴んだ手をこんなことで離したりしたくなかった。 (たとえあいつ自身がそれを望んでいなくてもな)
かつて恋人だったということを喋ったのは失敗だった。 何故跡部だけが未だに毎日来るのかと聞かれ、最初は適当に誤魔化そうとした。 だが求し続けるリョーマに、つい本当のことを喋ってしまった。
「記憶を失くす前、俺達は恋人として付き合っていた」
それ以降リョーマは跡部に対して、常に一定の距離を置いている。 嘘だ、デタラメだと叫ばれるのも辛いが、怯えたような目を向けられるのはもっと辛い。
真実を話したらもしかして思い出してくえるかもしれないという期待は打ち砕かれ、 リョーマから距離を置かれているという現実だけが残った。
2012年04月05日(木) |
lost 悲劇編 29.越前リョーマ |
「桃先輩、今日はありがとうっす」 自宅前まで送ってくれた桃城に、リョーマはぺこっと頭を下げた。 「先輩達もお前に会いたがっていたからな。礼なんて言うことないぜ」 流れる汗を拭って、桃城は笑った。
自転車に乗せてもらっている間、重くなったなーと言われ、「背が伸びたんすよ」と返した。 でも記憶を失くしている間に背が伸びるというのは妙な感じだ。 今まで見ていた風景が、違う角度で見える。戸惑うことの方が多い。
「本当に大きくなったよな。けど俺に追い付くのはまだまだ、だな」 「その内追い越すっすよ」 「さて、それはどうかな」 「何すか、それ」 ぷっと桃城は吹き出して、「元気そうで安心したぜ」とリョーマの頭を撫でた。 「色々言って来る奴もいるけど気にするなよ。お前は悪くない。 そのことはちゃんとわかっているからな」 「桃先輩……」 「じゃ、そろそろ行くわ。また顔見に来るからな」 「っす」
手を上げて、桃城は自転車をこいで帰って行った。 青学のメンバーに会わせてくれたことを感謝して、リョーマはもう一度その場で頭を下げた。 前から面倒見が良い先輩だったが、そういう所はちっとも変わっていない。 それが嬉しくて、自然と笑みが零れる。 さて、家に入ろうかとくるっと体を反転させた瞬間、 「待ってよ」と急に飛び出して来た影に引き止められる。
「あ…、芥川さん?」 思いもしなかった人物の登場に、リョーマは固まってしまう。 敵意の目を向けられ、内心怯む。 リョーマの記憶の中ではいつも人懐っこく、笑っているイメージしかなかったからだ。 「随分、楽しそうだったね。青学の人とは仲良くやっているんだ。 跡部のこと散々苦しめといて、自分は呑気に遊んでいるの?いい身分だよね」 「呑気になんて……」
反論しようとするが、「お前は何もわかってない!」と大声で返される。 「跡部が今何しようとしてるか、わかってんの?お前なんかの為に時間を割いて、噂を消そうとしているんだよ。 自分から拒絶したくせに、その相手に何やらせてるんだよ。何で関わって来るんだよ!」 「それは跡部さんが勝手にやったことで、俺は何も知らなくて」
もごもごと言い訳するが、きっとジローには届かないんだろうなと考える。 きっとジローは自分がここにいるだけで跡部に迷惑を掛けていると思っているのだろう。 完全に否定出来なくて、それ以上何も言えずに黙り込む。
すると、「もう、跡部に関わらないでよ」と低い声で言われる。 「この件から手を引くように俺から跡部に説得する。だからもう会わないでやって、お願い」 「それは、勿論わかっているよ」 「本当に?」 「……うん」 頷くとジローは「そっか」と小さく息を吐いた。 「俺は、今度こそ跡部にちゃんと幸せになってもらいたいんだ。 あんなに苦しんでる姿を見て、もう二度と同じ思いをさせたくないって、そう決めた。 だから言いたくないことだって、ちゃんと言う。嫌な奴にだってなる。 二年前ならリョーマと跡部が幸せになることを願っていたけど、今は出来ない」 リョーマと呼ばれて、顔を上げる。 ジローは先ほどとは違い苦しそうな顔をしていた。
「なんで記憶喪失なんてなったんだよ。 なんで記憶を失ってから、跡部を拒んだりしたの。 そうじゃなかったら、こんなことしなくても済んだのに。 俺だってリョーマを嫌いになりたくなんてなかった。友達だと思っていたのに……」 顔を背けてジローは「さっきの約束忘れないでね」と言った。
「跡部はすごく大事な友達だから、俺が守ってやりたいんだ」 「芥川さん……」 そのままジローは無言で走り去って行く。
その背中をみながら、二年前のことを思い返す。 跡部を通じてだけど、ジローとは仲が良かった方だと思う。 テニス強いよね、俺の相手もしてよとコートに引っ張って行くジローの強引さに、始めは驚いたけど、すぐに慣れた。 人懐っこい笑顔に、ついつい何を言われても許してしまう。 「お前ら俺抜きでベタベタしているんじゃねえ」と跡部に怒られたこともあった。 でも今はジローにとって、自分は跡部の幸せを邪魔する存在でしかないのだ。 婚約者のいる跡部のことを思って、近づかないようにと牽制してくるジローのやり方も、ある意味間違っていないように思えた。
記憶喪失なんてならなければ良かった。 考えても仕方無いことが、また頭の中に浮かぶ。 少し頭を冷やそうと、玄関から中へと入りキッチンへ向かおうとすると、 「帰ってきたのか」と南次郎に声を掛けられた。
「結構、遅かったな」 「あ、青学の先輩達とちょっと会ってた」 「青学の……そうか」 髭を弄りながら頷いた後、南次郎は顔を上げて言った。
「リョーマ。まだ、テニスを続けたいと思っているのか?」 「当たり前。何年掛かっても強くなる努力は止めない。 親父のこともまだ倒していないんだから」 「そっか。それ聞いて安心したぜ」 いつになく真剣な南次郎の様子に、何だろうと目を瞬かせる。 もう諦めろとか言われたら反論するつもりでいるが、そういうわけでも無さそうだ。
「リョーマ。お前、アメリカに戻るつもりはないか?」 「え?」 「俺の知り合いに故障を抱えたり、スランプで悩む選手を専門にコーチをやっている奴がいるんだが、 そいつの元で一からテニスを始めてみないか。 一人でやってるより、効率よく実力を伸ばせるだろう」 「本当に?」 「まあ、お前次第だけどな。行くって言うのなら、すぐにでも手続きを済ませるぜ。 夏が終わる前には受け入れてもらえるだろう」 「そんな早く?」 「当たり前だ。こういうのは早ければ早い方がいい。 もたもたしていたら、いつまでも足踏みしたままだぞ。 お前も記憶を戻したばっかで離れたくない友達とかいるかもしれないけど、 この先のことを考えたら、今行っておくべきだ」 南次郎の言葉を聞きながら、リョーマの頭に跡部のことが浮かんだ。
自分がここからいなくなれば、ジローの言う通りもう会わなくても済む。関わることはなくなるだろう。 噂を流しているのが誰か決着つけないまま旅立つのは逃げのようで気が引けるが、 その方が誰にも迷惑が掛からない。 千石や桃城や青学の先輩達に心配を掛けなくて済む。
「俺……、行くよ」
迷う理由なんて、どこにも無かった。
リョーマの家から離れた所で、ジローは大きく息を吐いた。 正しいことをしているはずなのに、苦しくて堪らない。 二年前と変わらず澄んだ目で見られて、何かとても大きな間違いをしている気持ちになる。 (けど、リョーマが跡部を傷付けたのは事実だ) あの頃、リョーマに拒絶された跡部の心はかなり荒れていた。 学校にも来ずに家に閉じこもっていた彼を毎日訪問し、会話出来るようになるまで一ヶ月以上掛かった。 それから少しずつ外に連れ出すようになって、学校に行けるようにまでなった。 跡部はそのことをよく覚えていて、感謝していると卒業式の日に礼を言った。
「お前がいなかったら、きっと俺はここにいなかっただろな」 吹っ切れた表情に、良かったとジローは思った。 それから跡部は親の薦める相手と婚約することになったが、相手は気立ての良い子で、出しゃばったりするような言うこともなく、上手く跡部に寄り添ってくれている。 あかりの存在もあって、何もかも順調にいくように思っていた。 だけど。 リョーマといる時の跡部はもっと幸せそうだった。 素っ気無くされても冷たくされても、いつだって嬉しそうにしていた。 あの頃を知っているからこそ、リョーマをもう跡部とは近付けさせたくないと考えてしまう。
(本当は、俺だって二人のことを応援していたのに……)
リョーマが記憶喪失になってから、何もかも変わってしまった。 背は低いがそんな事は関係ないと強敵を倒して行く、リョーマの強さをジローも認めていて、 跡部と並ぶのに相応しい子だと思っていた。 本気で、二人がこのままずっと幸せでいられたらいいと願っていたのに。
携帯の振動音に、ジローはポケットを探った。 表示を見て、またかと中身を確認することなく直ぐに仕舞う。 少し前に知り合った中等部の女子からだ。 リョーマのことで妙な噂が流れていると教えてくれたのも、この子だった。 最初はいい気味だと面白がって聞いていたが、今はもう聞きたくもない。 そんな噂が流れるから、跡部がリョーマに関わろうとするのだ。
(明日、跡部に会ったらリョーマと話を付けて来たからもう関わらないようにって言っておこう)
二人が元の道に戻ることは有り得ない。 二年前、どれだけ傷付いたのか跡部だって覚えているはずだ。 忘れたというのなら思い出させて、説得するまでだ。
2012年04月04日(水) |
lost 悲劇編 28.越前リョーマ |
大きく逸れたボールに、リョーマは小さく舌打ちをした。 今までどうやって狙った所に打てたのか、まるでわからない。 思い通りにならない腕に腹が立つ。 いつになったら以前の実力を取り戻せるのだろう。 二年というブランクは、そうそう埋まりそうにない。 先の見えない出口に、焦りを覚える。
(少し落ち着こう) 木陰に行き、用意しておいたドリンクホルダーを手に取る。 跡部と会って以来、余所のコートで打つのが怖くなって、結局また境内の所で練習している。 またどこかで顔を合わせるかもしれないと思うと、気が滅入るからだ。 他人に悪口を言われたり、絡まれたりするのはどうでもいいが、跡部と関わることだけは避けたかった。 (もうあの人とは、別れたんだから) 関係の無い人だと言い聞かせて、息を大きく吐く。 と、そこへ「リョーマさん、お客様ですよー!」と従姉が急ぎ足でこちらへと走って来た。
「客?誰?」 「桃城さんです。リョーマさんに何か用事があるみたいですよ」 「わかった。すぐ行く」 桃城が来てくれたのも、久し振りだ。彼も大会前で忙しいから、ここに来る余裕は無かったのだろう。
「よっ、越前」 自転車に乗って来た桃城は、額の汗を拭いニカッと笑った。 「ども」 ぺこっと頭を下げると、「急で悪いんだが、今時間あるか?」と言われる。 「あるけど……?」 「じゃあ、ちょっと付き合ってくれよ。連れて行きたい所があるんだ」 「え、どこ?」 「それは着いてからのお楽しみ。さあ、乗った、乗った!」 「ちょっ、せめて着替えてから」 汗でベタベタになったシャツのままで行くのはヤダと抵抗しても、 桃城の馬鹿力によってむりやり自転車に乗せられてしまう。 「さー、行くぞ!飛ばすからな!」 「え、うわっ」 ぐらっと揺れる感覚に、リョーマは慌てて桃城のシャツを掴んだ。
以前はこんな風によく自転車に乗せてもらった。 一緒に帰って、寄り道をして、ストリートテニス場で打って、お互いムキになって、また明日も来ようなと約束した。 そんな楽しかった日々はもうもどらない。 いつだって失った後で気付くんだと、リョーマは目を伏せてじっと大人しくしていた。
「ここって……」 到着と桃城が自転車を止めた場所に、目を丸くする。 かわむら寿司と書かれた暖簾が下がった店。忘れるはずもない。 「さあ、入った、入った」 桃城に背中をぐいぐい押され、入り口の前に立つ。 同時にガラッと引き戸が開いた。
「おチビ、久し振りっ!」 「菊丸、先輩?」 抱きついて来た人影を確認すると、以前と変わらない菊丸の笑顔がそこにあった。 リョーマの背が伸びた分、前よりも顔の位置は近くなっている。 「こら、英二。いきなり飛びついたら越前がびっくりするじゃないか」 後方から窘める声が聞こえる。 確認するまでもない。ゴールデンペアの片割れの大石だ。 副部長だった大石は、リョーマが菊丸に絡まれるとこんな風に言って引き剥がしてくれたものだ。 「大石先輩、久し振りっす」 「いきなり呼び出したりして、ごめんな。今日は午後から練習が休みになったんで、皆で集まらないかって話になったんだ」 「皆って、」 「ほら、おチビ。早く入って!」 菊丸に抱えられるようにして店内に入ると、そこには元青学レギュラーのメンバー達がいた。 「やあ。いらっしゃい、越前」 「驚いて声も出ない確率90パーセント」 「乾先輩……。そんなデータ取ってどうするんすか」 「久し振りだね、越前」 カウンターにはエプロンを付けた河村が立っていて、乾と海堂と不二はそれぞれ座敷に座っている。
「桃から事情は聞いた。それで久し振りに越前に会いたいと皆で集まったんだ」 大石の声に、リョーマは咄嗟に頭を下げる。 そうしなければいけないと、思ったからだ。 「ごめんなさい」 「越前?」 「だって俺、決勝に間に合わなくて、だからそれで青学の全国制覇が……」 あの頃、皆が全国制覇という目標に向かってどれだけ頑張っていたか知っている。 それなのに自分は軽井沢へ行き、集合に間に合わない所か、記憶を失って試合に出ることすら出来なかった。 取り返しのつかないことをしたと悔やむリョーマに、菊丸がぽんと頭に手を乗せてきた。
「誰もおチビを責めたりしないよ。何謝ってんの」 「でも」 「青学が負けたのはおチビの所為じゃない。俺達の力が少し足りなかったんだ」 「菊丸先輩の言う通りだ。てめえ一人で青学背負っているわけじゃねえだろ」 菊丸に続き、海堂がぶっきらぼうに声を出す。 「お。いいこと言うじゃねえか、マムシのくせに」 「なんだと。てめえ、もういっぺん言ってみろ!」 「二人共止めないか。タカさんに迷惑が掛かるだろ」 「あはは。もう慣れているけどね。越前、そんな顔しないで座ってよ。 今日は皆で集まったんだから、俺が握った寿司を食べて喜んでもらえたら嬉しいな」 「河村先輩……」 「ほら、おチビ。座って!」
皆に合わせる顔がないとずっと考えていた。 青学の柱になる為、手塚から奪い取ってやる、強くなってやろうと努力していたのに。 最後の最後で自分の不注意からそれを放棄し、皆に迷惑を掛けてしまった。 優勝できなかったのは自分の所為だと、そう思っていた。 しかしそれはただの思い上がりだ。 海堂の言う通り、自分一人が青学を背負っているなんて考えは、全国決勝の舞台まで共に頑張って来た先輩達に対して失礼に当たる。
前と変わらない笑顔で受け入れてくれる彼らに、リョーマは泣きそうになるのをぐっと堪えて、 笑顔を向けた。
それから二時間ほど飲み食いをして騒いで、少し静かになった頃、 リョーマは気になっていたことを斜め前に座っている大石に尋ねた。 「部長、じゃなくって、手塚先輩は今どうしているんすか?」 「ああ。あいつならドイツ留学しているよ。今は、向こうで頑張っている」 「ドイツ、っすか」 そうか。手塚はすでに夢を追いかけて羽ばたいて行ったのか。 きっと変わらず、いやあの頃より強くなっているんだろうなと想像する。 「留学する直前まで、手塚は越前のことを気にしていたぞ」 「え……」 「いつか記憶を取り戻すだろうから、その時はまたどこかのコートで試合することになるかもしれないと言っていた。 あいつは越前がテニスを捨てるなんて有り得ないと、信じていたんだろうな」 「そんなこと、言っていたんすか」 リョーマの記憶は戻らずテニスから遠ざかったままの状態で、手塚は旅立って行った。 柱を奪い取るという宣言も果たすことが出来なかった。 見放されてもおかしくないのに、信じてくれていたなんて。 手塚の気持ちに応える為にも、ボールが上手く打てないからと立ち止まっている場合じゃない。
「それで越前は今、テニスを続けているの?」 別のテーブルから移動して来た不二にそう問われ、一瞬戸惑う。 が、すぐに「はい」と答えた。 「ブランクがあるから以前のようにとはいかないけど、自主練習は続けているっす」 「そう」 「でも、中等部の大会に出るとか、そんなことは考えていないんで」 先輩達にもあの噂が耳に入っているかもしれない。 先に否定しておこうと声に出すと、「わかっているよ」と不二は微笑んだ。 「二年の空白は大きい。それに越前が無理して大会に出ようなんて考えてるはずがないとわかってる」 「桃から聞いたよ。無責任な噂を流す奴もいるもんだにゃ」 「乾先輩。犯人に心当たりは無いんすか?」 「中等部のことまではもう把握していないからな。調べてはいるが」 「何かあったらすぐに知らせてくれよ。俺達も駆けつけるからな」 皆からの言葉に、再び目の奥が熱くなる。 「あれ?おチビ、どうしたの?」 瞬きをして誤魔化そうとしていると、菊丸が顔を覗きこんで来る。 泣きそうになったなんて言えるはずがなく、 「なんかわさびの量が多かったみたい」と答えた。 きっと皆にはバレバレだったけれど、からかう者は誰もいなかった。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎる。 かわむら寿司の営業時間前に、皆で片づけをして外へと出た。
「また遊ぼうね、おチビ!」 「俺、まだその呼び方のままっすか?」 あの頃より背は伸びたのにと言うリョーマに、 「おチビはおチビのままだよ!」と菊丸は笑った。 「越前、無茶はするなよ。何かわかったら、俺達にも知らせてくれ。 犯人がわかっても、一人で動こうとしないように。いいな?」 「大石、相変わらず心配症〜」 「俺は越前のことが心配だから、言っているんだ」 「けど本当に誰が何の目的でやっているんすかね?」
リョーマに対する嫌がらせの話題を語りながら駅へと歩いていると、 ふと寄って来た不二が「大丈夫?」と声を掛けて来た。 「大丈夫っすよ。別に、何を言われても平気」 「そっか。君は強いね」 にこっと笑って、不二は続けた。 「でも全部が全部平気ってわけじゃないでしょ。 全く傷付かないはずがない。違う?」 「……」 「だけど、負けないで欲しい。 君にはテニスを続けていてもらいたいんだ」 不二からの意外な言葉に、驚いて顔を上げる。
「どうして?不二先輩がそんな風に思うんすか?」 「意外、かな?だけど僕にとっても君は特別な後輩だったんだ」 二年前を思い出しているかのように、少し前を向いて不二は話を続けた。 「これでも僕は天才なんて呼ばれていたんだよ。 だけど一年生の君とあの雨の日に試合をして、久し振りに楽しいと思えるテニスが出来た。 それに準決勝でも言っていたよね。倒れている僕に本気でやってよって。 あれはかなり効いたなあ。5−0で負けているのに本気でやれって言われて、悔しいと思ったよ。 ここで負けたくないって。 だからそんな風に僕の心に火を点けた君が、このままテニスを辞めるなんて、許さないんだから」 「不二先輩……」 不二の顔はいつも通り穏やかな笑みを浮かべていて、どこまで本気かわからなかったけど、 でもきっと全部が本当だとそう思えた。
「俺、テニス辞めないっす。 誰に何を言われても、今度こそラケットを離したりしないっす」 「そう。その決意が聞きたかった」
頑張って、と言う不二に、リョーマは大きく頷いて応えた。
2012年04月03日(火) |
lost 悲劇編 27.跡部景吾 |
ジローの姿が今日も無いことに、跡部は肩を落とした。 もう直ぐ大会が始まるというのに、これでは後輩達に示しがつかない。 例えレギュラーじゃなくても、部活には参加するべきだろう。 もうその位の分別はつくようになったかと思ったが、違ったらしい。 いくら跡部と仲違いをしたからって、部活動は関係ないはずだ。 どうしたものかと逡巡していると、「今日もジローは休みなのか」と宍戸が話し掛けて来た。
「ああ。部活が終わったら、家に寄って様子を見てくるつもりだ。 明日は来るように説得する」 「わざわざお前が行くのかよ?」 意外そうな顔をする宍戸に、「原因は俺にあるからな」と跡部は答えた。 ジローはあんなにもリョーマと会うなと言っていたのに、それを破ったのは自分だ。 また、あれ程までに嫌うようになったのも、二年前の自分の所為だ。 わかっていて無視するわけにはいかない。
「そっか。じゃあ、お前に任せることにする」 「ああ」 「千石との話し合いは?上手くいったのか?」 心配そうな顔をする宍戸に、「そっちの方は心配ない」と答える。 「問題は何も無い。連絡先も交換したからな。 何か情報が入ったら、俺に教えてくれるとも約束した」 「そっか。早く解決するといいな」 「全くだ」
千石も四方八方手を尽くして、メールを送っている主は誰なのか探っているが、 情報はあちこちから流れているらしく、なかなか足取りを掴めないらしい。 跡部の方も中等部の部長や生徒会にも話をしたが、これという犯人が浮かび上がっていない。 青学の方にも当たってみるべきかもしれない。 強引な手を使っても、犯人は必ず挙げてみせる。
「そんなに怖い顔するな。後輩がびびるだろうが」 宍戸の声に、ハッと我に返る。 「お前が越前のことを心配してるのはわかってる。 俺の方でも、もうちょっと頑張って調べてみるからよ、そんなに気負うな」 「……そうだな」 頷くとほっとしたような顔をして、「俺、練習に戻るわ」と小走りで去って行く。 ここで色々考えても仕方無いと言い聞かせて、跡部は体の強張りを解いた。 どうしても早く解決したいと思うから、力が入ってしまう。 焦っても仕方無いけど、リョーマのことを考えると上手く自制が出来ない。 今は考えるなと、コートに目を向けて、打ってくるかとラケットを取った。無心になるには、テニスしているのが一番手っ取り早いからだ。
そして練習が終わってから、跡部はすぐにジローの家へと向かった。 明日は絶対に来いと言うつもりだったのだが。 「え、戻って来ていない?」 母親は跡部の訪問に驚いているようだった。 部活に行くと言って、家を出ているらしい。 ラケットを持っているので何の疑いもなく送り出しているよいうだが、実際にはテニス部に顔を出していない。 「あの、帰ったら電話をさせましょうか?」 不安げな様子に母親に、「ちょっと入れ違っただけです。明日、会ったら直接伝えますから大丈夫です」とだけ言って、退出した。
(ジローの奴、親に嘘をついて何が部活だ。どこに行っているんだよ) 今が夏休みで助かったのかもしれない。授業に出ていないとなったら、話は別だ。 部活なら罰を受ける程度で済む。 それにしても、一体どこで時間を潰しているのだろう。 女のところか?と考える。可能性はありそうだ。 他に考えられるとしたら、学校に来ているけどテニス部に顔を出さないだけかもしれない。 図書室とか音楽室とか冷房完備のある施設なら、ゆっくり眠ることが出来る。 ジローならちょっと甘えれば、大目に見てくれる。匿ってくれる場所はいくらでもありそうだ。
折角ここまで来て空振りだったとは。 こんなことなら、中等部に足を運んで今ある情報だけでも聞いてくれば良かったかと考える。 だが拍子抜けしたことで億劫に感じてしまい、そのまま車に乗って自宅へ戻るよう指示をする。 明日の朝は早くに家を出て、ジローが出て来るのを待ち伏せするべきか。 それとも他の方法は無いかと考えていたら、車が静かに停まった。 ドアが開けられて、車から降りる。
今日は自主練習する気分では無いから勉強の方に力を注ぐかと考える。普段から怠ってはいない が、いつも以上に勉学に励む日があってもいいはずだ。 そうするかと玄関から屋敷の中へと入ると、使用人がさっと寄って来た。 「景吾様、あかり様がお見えになっております」 「あかりが?」 少し大きな声を出してしまう。
練習が忙しいから、しばらく会うのを控えたい。 あかりはその言葉を信じて、跡部にメールも電話もしてくることは無かった。
「奥様も一緒です。景吾様が戻ったらすぐに客間に来るようにと」 「そうか……」 珍しく、母親が屋敷に戻っていたらしい。 断れるわけもなく、跡部は客間へと移動した。 ノックをしてドアを開けると、母親と和やかに会話をしているあかりの姿が目に入った。
「おかえりなさい、景吾。あなたの携帯に何回か連絡をしたはずだけど、メッセージは聞いてくれた?」 「いえ。今日持って行った携帯には何も」 「あら。じゃあ、家に置いて行ったものに掛けたのかしら?いくつも持っているから面倒なことになるのよ。そう思わない?」 同意を求められたあかりは、にこにこと笑っているだけだった。 母はあくの強い性格をしている。嫌いな人間は全く相手にしない。 だがあかりのことは気に入っていて、顔を合わせる度にこうしてお茶を飲み会話を楽しんでいる。 最も、この家にとって申し分の無い家柄で、結婚を纏めたいから可愛がっているだけなのかもしれない。
「あかりさんのお父様から果物を頂いたのよ。 景吾、あなたからもお礼を言いなさい」 母親が座っているソファの隣のテーブルには、つやつやとした桃が籠いっぱいに詰まっていた。 父親が届けさせたのかと、直ぐに察する。 おそらく娘との会話で、最近跡部と会っていないことに気付き、この家に来る口実を考えたのだ。 あかりはわかっていないようだが、父親としては疎遠にされないようにわざと届けさせたに違いない。 蔑ろにしているつもりは無かったが、周囲の大人達は好意的な解釈はしてくれないようだ。
「ありがとうございます。お父様にもそう伝えて下さい」 「ええ、勿論。それでは、私はそろそろお暇します」 立ち上がったあかりに「あら、もう帰ってしまうの?」と母親が引き止めに掛かった。 「是非夕食も一緒にどうぞ。あかりさんなら大歓迎。 お家に連絡をすれば、平気でしょう?」 「いえ。お誘いは嬉しいのですが、夜からピアノのレッスンの予定が入っているので、申し訳ありません」 「あら、……じゃあ仕方無いわね。今度、ゆっくり遊びにいらしてね。いつでも大歓迎だから。 景吾、あかりさんを車まで送ってあげて」 「はい」 あかりを伴って客間から出る。 少し廊下を歩いたところで、「今日は突然すみません」とあかりが小声で言った。
「父からの頼み事で断れなくて……。 景吾さんが忙しいとわかっているので、届け物だけしてすぐに帰ろうと思ったのですが、 お母様に引き止められてしまって」 たまたま屋敷に居た母があかりを見つけ、無理に客間へ引き入れたこと位、跡部にも想像がついた。 そうでなければ、跡部が留守の間に居座ったりしないだろう。 大会前で大変だから、会うのを控えたい。 その言葉を間に受けて、律儀に約束を守って跡部からの連絡が来るまで待っている。あかりはそういう人だ。 今日のことがなかったら、会うのはもっと先になっていただろう。
「別に謝ることはない。それに、今日会えて良かった。 ……またしばらくは忙しい日が続きそうだから、もう少し待っててもらえると助かる」 部活が忙しいんは本当だが、それだけじゃない。 『跡部にはあかりちゃんがいるんだよ?それとも彼女に堂々と言えることをやってるつもり?』 ジローに言われた言葉を思い出す。 昔の恋人を苦しみから救ってやりたい。 そう告げたら、どうなるのか。 いくらあかりが優しくても、穏やかではいられなくなるだろう。 わかっているからこそ、言えない。 だから今また嘘をついた。 正しいことをしているはずなのに、どうしてもあかりに打ち明けることが出来なかった。
「景吾さんが頑張ってるって、わかっていますから」 何も知らないあかりは微笑みながら「待ってます」と言った。 「体だけは壊さないで下さいね。無茶をして倒れたりしたら、元も子もありませんから」 「ああ」 「私はずっと景吾さんを応援しています」 それでは、と頭を下げてあかりは乗ってきた車へと乗り込む。 最後まで笑顔のまま去って行く姿に、跡部の良心が痛みを訴えた。
結局、嘘を重ねるだけだった。 ジローの言う通り全て話すことなんて出来なくて、こそこそと動き回るような真似をしている。 あれだけ信じ切っているあかりに真実を話すなんてとても出来ない。 だってこの件が終わったら、リョーマのことを完全に忘れられるのかというと、そうだと言い切れない自分の気持ちに気付いている。
二年前に何もかも間違えてから、もうずっと元の道に戻れないままだ。 それでも進んで行くしかない。 嘘をついてまで、守りたいものがあるのは確かなのだから。
2012年04月02日(月) |
lost 悲劇編 26.跡部景吾 |
結局、ジローはコートに戻って来なかった。 跡部は溜息を零し、どうしたものかと考える。 基本的には素直な奴だが、一度臍を曲げると元に戻すのは難しい。 いくらレギュラーではないとはいえ、このままにもするわけにはいかない。 大会も近いことだから揉め事は避けたいと考えていると、 「跡部」と宍戸が声を掛けて来た。
「ジローのこと聞いたぜ。何をそんな怒ったのかはわからねえけど、戻って来るのか?」 「今日一日は様子を見るつもりだが、多分無理だな」 「そっか。……ところで、越前の件なんだけど」 口篭りながら言う宍戸に、こちらの話が本題だとわかった。 「どうするのか決めたのか?」 「ああ。だから中等部に行って話を聞いて来た。あいつの揉め事は、俺が片付ける」 「そうか」 どこかほっとした顔をしながら、「俺にも手伝えることがあったら、言ってくれよな」と宍戸は言った。 「一応こっちも後輩達に当たっているけど、その情報もお前に伝えた方がいいか?」 「ああ、頼む」 頷いたところで会話は終了と思ったのに、宍戸はまだ立ち去ろうとしない。 まだ何かあるのかと顔を見ると、「実は、千石から跡部に会いたいって連絡があった」と言われる。
「あいつ、お前がこの件に乗り出したことを知っていた。 なんでかは知らないけど」 「多分、越前の口から聞いたんだろ」 「越前が?それ、どういう意味だよ」 目を瞠る宍戸に、「昨日、偶然会った」と正直に伝える。 「その時、俺が例の件を調べていると言った」 「なっ……」 絶句した後、宍戸は「大丈夫か?」と小声で尋ねた。
「その、トラブルになるようなことになったりは」 「勝手なことするなと、あいつに拒絶されただけだ」 リョーマの強い意思を込めた目を思い出し、軽く息を吐く。 「けど、俺はこのまま手を引いたりしない。 千石にもきっぱりとそう言ってやるつもりだ。 俺の方からも会って話を付けたいって、奴に伝えておけ」 「あ、ああ……。今日、部活が終わった後にでもどうかってメールに書いてあったけど、どうする?」 「了解したと送っておいてくれ。話をするなら早い方がいい」
千石がどれだけぐちゃぐちゃと文句を言ってこようが、解決するまで引く気は無い。 むしろ宣言した方がすっきりするだろう。
「越前ともう一度関わること、決めたんだな」 「ああ。今度は逃げたりしねえよ」 二年前は記憶を失くしたリョーマに拒絶され、擦れ違った挙句最悪の別れ方をした。 諦めずにリョーマを想い続けていたら、違う未来がここにあったかもしれない。 だけど、後悔しても仕方無い。 それよりも今、リョーマに降りかかっている問題を解決するべきだ。 本人に拒絶されても、跡部は最後までやり遂げるつもりでいた。
「そっか。色々辛いだろうが頑張れよ」 宍戸の言葉に「わかってる」と返す。 この件が終わったからといって、リョーマとよりを戻すとかそんなことを考えているわけじゃない。 ただもう逃げたくないという気持ちがあるだけだ。
「そろそろ練習に戻れよ。あんまり喋っていると先輩達ににらまれるぞ」 今は部活中だ。各自のメニューをこなしている時間とはいえ、遊んでいいはずがない。 跡部の言葉に「そうだな」と宍戸は頷き、走り始める。ランニングに行く途中だったようだ。
(俺も、コートに入るか) ラケットを持って歩き出す。 と、そこでフェンス越しに中等部の制服を着た二人組みの女子と会話している忍足を見付ける。 (しょうがねえ奴だ……。部活中だぞ) 高等部まで来てくれた熱心なファンを追い返すわけにはいかず、相手をしているのかと冷めた目で見る。 ご苦労なこったと胸の内で呟き、立ち去ろうとした所で立ち止まる。 (あの二人連れ……。どこかで見たような気がする) もう一度顔を確認する。つい最近見掛けたが、どこだったかと考える。 記憶力は良い方なので、すぐに思い出す。 (そうだ。ジローと話していた連中だ。たしかジローのファンだとか言ってたな) 忍足に乗り換えたのか?と考える。女の心は移り気だ。 何度も足を運ぶ内に、別の部員のファンになってもおかしくはない。 軽く手を振って、忍足はフェンスから離れて行った。二人は頭を下げて、コートから去って行く。
(ジローが来ていないか、確認していただけかもしれねえな。どちらにしろ、ご苦労なことだ) ジローにしろ忍足にしろ、ファンだという女子の数は多い。 よっぽどのことでもない限り、顔を覚えてもらうのも難しい。 他にも見学している女子達はいて、面白くなさそうに今離れて行った二人組みの背中を睨んでいる。 抜け駆けして話し掛けたのを、快く思っていなさそうだ。 だが周囲を気にしていたら、ただのファンで終わってしまう。 誰に何と思われようが近付いて行く辺り、年下ながら結構気合が入っている子達なのかもしれない。
(俺には関係ないけどな……) それよりジローへとフォローをどうするか。 千石との話し合いが上手く行くのか。 この二点の方が今は重要だ。 問題は山積みだなと頭を振って、跡部は再びコートへと歩き出した。
そして宍戸がもう一度声を掛けて来たのは、部活が終わった頃だった。 「千石、こっちに来るって連絡して来たけど、俺も一緒に行った方がいいか?」 耳打ちに、「話をするだけだから、俺一人で行く」と答える。 何もケンカをしようというわけではない。 跡部の表情を見て、宍戸は「そっか」とあっさり引いた。 「校門の所で待っているってさ。じゃあ、伝えたからな」
お先にと肩を歩いて行くその先には、着替えを終えた鳳が待っていた。 ぺこっと頭を下げて宍戸と一緒に帰って行く。ひょっとしたら、これから自主練習をするのかもしれない。 この前、鳳には色々言われたがそれに対して文句を言うつもりもなかった。 むしろリョーマのことを教えてくれたという感謝の気持ちが大きい。
(ジローの奴、結局さぼったな) どうせ昼寝したまま、まだ眠っているに違いない。 明日、顔を見せなかったらさすがに引っ張って来ようと思いつつ、跡部も部室を出た。
「跡部君!」 千石というと、ついあのオレンジ色の髪をイメージしてしまうが、今は黒に変わっている。 違和感に、跡部は無意識に目を細めた。 「意外と早かったね。お疲れ様」 「いや、お前の方こそこっちまで来てくれて悪かったな」 「いいの、いいの。大事な話だもん。とりあえずどこかに入らない?喉渇いちゃった」 うっすらと額に汗を掻いている千石を見て、跡部は学園のすぐ近くにあるカフェを指差す。 「そこに入るか」 「うん、行こ、行こ」
千石のフレンドリーな態度に、跡部は戸惑っていた。 てっきり余計なことをするなと乗り込んできたと思ったのに、拍子抜けしてしまう。
「俺、モカフロートにしようっと。跡部君は?」 「……アイスコーヒー」 注文の品が届くのを待つ余裕もなく、先に話を切り出すことにする。
「今日、来たのは越前のことなんだろう? わかってる、あいつにもう関わるなって言いたいんだろ?でも、俺は」 「何言ってるの?」 きょとんとした顔でメニューを脇に置いて、千石は跡部に向き直った。
「俺はむしろ跡部君が解決に乗り出しれたのは良いことだと思ってる。 多分、俺や宍戸君が情報を集めても、出来ることは限られている。 もしかして犯人が誰かなのか突き止められないかもしれない。 けど、跡部君なら出来るはずだ。それだけの力を人脈を持っているから」 「反対はしねえのかよ。越前から聞いたんだろ? 俺が関わることをあいつは嫌がっている」 「そうだね」 千石は頷いた後、「だけど」と続けた。 「このままでいいはずがないんだよね。 だって知らない人から絡まれたり、陰口言われたりしているんだよ? リョーマ君はわかっていない。放っておいてもまた噂を流されたらずっと誰かの目に晒されることになる。 とにかくメールを送っている奴を突き止めて、止めさせなくちゃいけない」 「そうだな」 「でもリョーマ君には、今は内緒にしてもらえるかな。 跡部君が関わっていることに、本気で困っているみたいだったから」
お待たせしましたと、店員が注文したものを運んできた所で千石は口を噤んだ。 跡部はグラスを手に取ってカラカラになった喉を潤す為、ストローを差して口をつける。 やはり、嫌がっているのか。 リョーマはそんなに俺との接点を持ちたくないのか。 跡部の悩みを見透かしたように、「多分、プライドの問題なんだよ」と千石は呟いた。 「プライド?」 「うん。リョーマ君からしたら、恋が終わったのは二年前じゃなくつい最近ってことになるでしょ。 そのショックからまだ立ち直れていないのに、訳もわからず中傷されて、相当参っているんだと思う。 でも、跡部君にはもう甘えられない。 だからこそ知られたくなかったんじゃないかな」
そんなこと、と跡部は思う。 リョーマが弱音を吐いたところで蔑んだり、見損なうことなどありえないのに。 むしろいつだって駆けつけてやりたい、手を差し伸べてやりたいと思っている。 けれど。 (もう、俺にはそんな権利も無いのか) 記憶を失くしたリョーマと別れた日に、自分は近付くことも許されないと思った。 だから、今も拒否されても当然だ。 きゅっとグラスを握ると、「もう少し待ってあげてくれる?」と千石は言った。 「気持ちの整理が出来たら、リョーマ君だってきっとわかってくれる。 俺の方からも説得するからさ。 勝手なことばっかり言っているのは承知している。でも、リョーマ君の為でもあるから」 「わかってる」 それが最大の譲歩だろう。 跡部はもう一口アイスコーヒーを飲んでから、「お前の言う通りにしてやるよ」と告げた。
「越前のことを考えているのは、俺も同じだ。手を引くつもりはねえよ。 だからそっちもわかったことがあったら、知らせてくれるか?」 「勿論だよ」 ほっとしたように笑う千石に、本当にリョーマのことを心配しているとわかった。 そんな友人が一人でも味方にいることは心強いことだろう。 「そうだ。跡部君の連絡先、教えてくれる? これからは直にやり取りしてもいいかな」 「俺もお前に訊くつもりだったから、問題無いぜ」
互いの連絡先を交換して、今わかっている情報を出し合う。。 まだ真実は明らかになっていないが、千石との繋がりを得たことで一歩前に進んだような気持ちになった。
2012年04月01日(日) |
lost 悲劇編 25.越前リョーマ |
跡部だけには知られたくなかった。 他の誰に何を言われてもいい。 だけど跡部だけには同情的な目を向けられたくない。 それなのに、全部知ってた上に、手を差し伸べるようなことをするあんて。
息が上がり、リョーマは立ち止まった。 以前はこの位の距離を走ったってどうってことなかったのに、 もう限界が来ている。 今の自分がひどく惨めに思えた。 空白の二年の間に失ったものはあまりにも大きい。
(泣いたって何も変わらない) 目に力を込めて、必死で零れそうになる涙を堪える。
釘は刺しておいたから、これ以上跡部が関わって来る事は無いだろう。 同情して力を貸してくれようとしているらしいが、今のリョーマにとってそうされる方がよっぽど辛い。 無関係になったのだから、もう何もしなくてもいい。 変に期待を持たすような真似は止めてほしい。
いっそもう跡部と会えない位、遠い所へ行きたい。 そうしたら関わることはなくなる。偶然会うこともなくなる。 そんなことを考えながらトボトボと歩いていると、バッグに入れていた携帯が着信を知らせた。 まさか跡部じゃないだろうなと疑いながら表示を確認すると、それは千石からだった。
「もしもし?」 「リョーマ君?今、部活終わった所なんだけど、これから会えない? 一人でテニスするよりも二人で打った方が楽しいよ!ちょっとだけでも、どうかな」
明るい声で捲くし立てる千石に、跡部と会う前だったらいいよって答えただろうなと考える。 だけど今は何だか疲れてしまって、そんな気になれない。
「ごめん。今日はちょっと無理」 「あー、いいよ。突然だったし。また今度打とうよ」 「うん……」
弱弱しく返事すると、千石に「何かあったの?」と言われる。 「別に何も。なんでそんな風に言うんすか」 「だって、元気無さそうじゃない。 リョーマ君、今どこにいるの?そこ、外なんでしょ?」 「えっと」 最寄りの駅に向かっている所だと正直に告げると、「今からそっち行く」と千石が声を上げた。 「え、でも……」 「そこ、俺の家から近いんだ。そのまま遊びに来ない?えっと、降りる駅は」 「あの」 「俺、コンビニでお菓子とファンタ買って置くから!そのまま乗ったら2つ目で降りてね。絶対だよ」 「いや、だから」 「じゃあ、また後で」 「ちょっと」 断る前に通話は切られた。
「……どうしよう」 正直、誰かと会って話す状態ではない。 メールを送って断ろうかと考える。 でも折角誘ってくれた千石の気持ちを考えると、このまま帰るのもどうかと思われた。 いつだって彼は自分に優しかった。気遣ってくれた。 (仕方無い……) ちょっとお菓子を食べてファンタを飲んだら帰ればいいかと考えて、改めて駅へと向かった。
「おーい、リョーマ君!こっち、こっちー!」 手を振る千石を見て、そんなに大声出すことにのにと、リョーマは小走りで千石の元へと走った。 「どーも。そんな声上げなくても聞こえてるっすよ」 「あ、ごめん。気付いてくれないかと思って、必死になってた」 明るく笑って、千石は頭を掻く。 もう一方の手はコンビニの袋を下げていた。 さっきの会話通り、買い物を済ませていたらしい。
「じゃあ、行こうか」 先に歩く千石の少し後をついて行きながら、どこまで歩くんだろうと考える。 「そんなに遠くないからね」 あっち、と指差して、千石は顔をこちらに向けた。 「以前も何度か遊びに来てくれたんだけど、すっかり忘れちゃっているね」 「そう、なんだ」 記憶喪失だった頃の自分は、千石の家に行ったことがあるのか。しかし全く覚えていない。 一瞬申し訳なさそうにした気持ちが顔に出たのか、 「気にしないでね」と千石がそんな風に言った。 「今もリョーマ君と友達でいられて嬉しいからさ。また覚えていけばいいよ」 「うん」 その言い方に、ほっとする。 責められたり、非難することもなく、態度を変えずに側に居てくれる。 記憶を取り戻してから、そんな千石の態度に救われていたのかもしれない。
「おじゃまします」 「どうぞ遠慮なく上がって。夜までどうせ誰も帰って来ないからさ。 姉ちゃんがたまに彼氏を連れて来ることはあるけど、今日はバイトだから帰りは遅いと思う」 靴をぽいぽい脱ぎ捨てて行く千石の後に続いて、家の中へと入る。 通された千石の自室は適度に散らかっているが、足の踏み場の無いということでもない。
「そのクッションの上にでも座って」 千石に言われ、床に置いてあるハート型のクッションの上に腰を降ろした。 男子高校生の趣味じゃなさそうなそれは、おそらく前に付き合っていた彼女からもらったものだろう。 別れたからといっても、捨てたりしない。千石はそういう所、無頓着っぽい。 よく見ると他にもぬいぐるみやら、ファンシーなものが部屋に置いてある。
「やっぱり気になる?片付けしなくちゃいけないってわかっているけど、ついほったらかしになっちゃって」 リョーマの無遠慮な視線に苦笑しつつ、千石は「はい」とファンタのペットボトルを渡してきた。 「今は別にこれといって付き合っている子はいないし、そうなったら大掃除すればいいかなと思って」 正直な物の言い方に、小さく笑う。 以前の自分なら呆れていたかもしれないが、千石のそういう開けっぴろげな所は嫌いではないと思っている。
「でも千石さんってもてるんでしょ。すぐに新しい彼女が出来そうだけど」 「いや、それがなかなか。俺もいつまでもいい加減な恋愛ばかりしていられないと考え始めているんだよね」 はあと溜息をついて千石はリョーマの方を向いた。
「俺より年下の君が真面目に悩んで、色々考えているのを見ているとさ、 何が好きなのかわからないのにとっかえひっかえの付き合いを続けていいものかって。 ちゃんと考えてみようって今は思っている所なんだ」 似合わないよねと笑う千石に、「そんなことない」とリョーマは言った。
「以前はわからなかったけど、ここ最近の付き合いで千石さんがいい人だってことはわかっているつもりっすよ。 似合わないなんて言葉で諦めないで欲しい。 それに千石さんのことをちゃんと好きになる人はいると思うから」
リョーマの言葉に千石は目を丸くした後、「ありがと」と、照れ臭そうに言った。
「じゃあ、相手が見付かったら、リョーマ君に一番最初に報告するね!」 きっと千石ならすぐに見付かるはずだと、力強く頷く。 二年前は軽い奴だという位の印象しか持っていなかったが、それは間違いだった。 親しくなってからわかることもある。 千石のおかげでさっきまでの暗く重い気持ちが少し晴れた気がした。
「なんか、ごめんね。 リョーマ君を元気付けようして、逆に俺が励まされちゃったね」 本題からずれたなあと呟く声に、リョーマは顔を引き締めた。 友人として信頼出来る彼にならば、今日あったことを話すことが出来る。
「俺の方は……、実は今日、偶然にも跡部さんと会ったんだ」 「跡部君に!?それで?」 「俺のことに関する噂の件、全部知ってて調べているんだて言われた。 誰が犯人なのか突き止めようとしているけど、余計なことしないでって逃げて来た」 「えっと、それじゃあ……」 千石は少し戸惑いながら、口を開いた。 「跡部君はもう知っているんだよね。リョーマ君に対して誰かが中傷のメールをばらまいているってこと」 「そうっす」 「調べるってどこまでわかったんだろう?何か聞いた?」 「そこまでは、わかっていないみたい」 「だけど跡部君が本気を出したらわからないことは無いと思う。 ねえ、この件に関してだけ頼るわけにはいかないのかな?」
千石の問いに、リョーマは首を横に振った。 たしかに自分だけではどうにも解決出来ないかもしれない。 跡部なら犯人を見つけ出す程の人脈と権力を持っているだろう。 それでもどうしても頼りたくは無い。 同情から手を差し伸べられるなんて、真っ平だ。
「そっか。リョーマ君がそう言うのなら仕方無いね」 少しだけ残念そうに、千石は言った。 「俺は跡部君に任せるのが、本当は一番いいと思うんだ。 すぐに犯人を見つけ出してしょっ引いて来る位、わけなさそうだから。 リョーマ君だって早い所煩わしい問題から解放されたいでしょ?」 「でも跡部さんの手は借りたくない。 もう別れたんだから……。今付き合っている彼女を大事にしていればいい。 俺に関わっている場合じゃないんだ。 いくら可哀相って同情してくれとしても、嬉しくないっすよ」
そんなの嫌だと、リョーマは俯いた。 その髪に、千石の手が優しく触れて撫でて来る。
「跡部君は同情でそいているわけじゃないと思うけど。 どっちにしろ二人にとっては辛いことだよね」
同情じゃなければ何だという質問はしなかった。 千石の言う通り辛いままなのには変わりない。
どんな事情があるにしろ、二人で一緒に歩く道をこの先に見付けることは出来ないのだから。
チフネ
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