ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2011年04月30日(土) 若葉の季節に生まれたきみへ

四月もとうとう最後の日。
カレンダーには友の名が記してあった。

その後元気にしているでしょうか?
気掛かりな事がたくさんあるというのに。
メールのひとつも出来ずにいます。

若葉の季節。きみが生まれた季節が。
光と緑のあふれる季節であったことを。
どうか忘れずにいてくださいね。



空に向かって手をのばす若き緑よ

雨の日には雨をうけとめ

風の日には風をうけとめ

そうして太陽に出会えた日には

すくっと胸をはって輝いてください





2011年04月29日(金) 白つめ草

散歩の帰り道。河川敷に小さな女の子がいた。
かたわらにはお祖母ちゃんらしき女性がいて。
ふたりしゃがみこんで何かをしているふうだった。

近づいてみてなんとも微笑ましい光景を目にする。
女の子のあたまには白つめ草の花の冠がのっていた。
嬉しそうな女の子の顔。まるでお姫様のようだった。

今度は首飾り。そう言ってねだったのかもしれない。
お祖母ちゃんらしきひとの手には小さな花束がある。

その花をひとつひとつ繋げていく様子が目に浮かんだ。
そうしてそれを女の子の首に優しくかけてあげるのだ。

わたしは子供の頃を思い出す。それはとても懐かしくて。
なんだかすぐにでも駆け寄って行きたい衝動にかられる。

わたしにもいつか孫が出来るのかしら。そうしたらきっと。

花の冠や。花の首飾りを作ってあげられるようになりたい。




2011年04月28日(木) 供養の鐘

雨あがりの清々しい朝。
いつもの山道を行けば木々の緑が目に沁みる。

お遍路さんをひとりふたりと追い越していく峠道。
声をかけることも出来ずただ会釈を繰り返すばかり。

その足取りにその姿にどんなにか励まされることだろう。
とても眩しく見える。一歩一歩が貴重に思えてならない。

ありがたい道だった。
ひとりひとりに手を合わせたい気持ちでいっぱいになる。



四十九日の法要。
被災地から遠く離れた我が町でも供養の鐘が鳴ったということ。
俺も黙祷をしたぞと帰宅するなり彼がおしえてくれた。

私はお大師堂へ行く。
お経を唱えながら冥福を祈ることしか出来なかった。

たくさんの命が一瞬にして失われた。
いまだ行方不明の方々もいてなんとも心が痛んでならない。

名ばかりの春がいま被災地に訪れている。

元気を出して立ち向かっていくしかないと言うひともいれば。

悲しみのどん底で立ち直れないひともいることを忘れてはならない。







2011年04月27日(水) 誰かさんのこと

雨が時々激しく降って。かと思えば薄っすらと陽が差す。
気まぐれな空。まるで誰かさんのようだねと私に言った。

そうそうその誰かさんは泣いたカラスがすぐ笑うみたいなひと。
あんまり泣くから泣き黒子があってすぐに笑うから笑いシワがある。

少女の頃から喜怒哀楽が激しくて情緒も少し不安定であった。
けれどもおとなになってからの誰かさんは『怒』を忘れていた。
だから眉間にシワを寄せることもないのでそこだけは若く見える。


かなしいことつらいこと。

それとおなじくらいうれしいことたのしいことがある。

だからじんせいまんざらではないなとおもう。

そう言う誰かさんのことが私はとても好きだった。


ねえどうしたらいい?このままでいいのかしら?

そう訊くといつだって「だいじょうぶよ」と微笑む。

わたしは元気になる。わたしはまたすくっと前を向く。




2011年04月26日(火) おにぎり

朝の肌寒さもつかの間のこと。
日中は気温が上がり初夏のような陽気となる。

お昼休み。職場の庭に腰を下ろしおにぎりを食べる。
空を見上げつつひとくち。風に吹かれながらひとくち。

それはとても美味しくて幸せな気持ちになった。

そうして自分がなにも考えていないことに気づく。
空っぽというのではなくてすっきりとした空白だ。

ずっと不安定だったのかもしれない。
ざわざわと落ち着かない気持ちでいたような。
平穏である事を心苦しく思う時がいっぱいあった。

これでいいのかもしれないと今日は思う。

こんな日々を与えられている事に感謝しなければ。



2011年04月25日(月) 野の花

散歩道を歩いていると野あざみの花を見つける。
もう咲いてくれたのねと声をかけては。
またてくてくとすすむと今度は野バラに会った。

野の花はほんとうにさりげなく咲く。
控えめで素朴なそんな花たちが好きだ。

どちらも触れられないほどの棘を持つ。
そうして身を守っているのかもしれなかった。

だいじょうぶよ。そう語りかける。

だいじょうぶよ。どうかそのままでいて。



わたしはわたしの棘にそっとふれてみる。

そうして傷つけたかもしれないひとをおもう。

だからといってほかにどんなほうほうがあったのだろうか。


だいじょうぶよ。そう語りかける。

だいじょうぶよ。どうかそのままでいて。



2011年04月23日(土) 藤の花

桜の季節が終われば藤の花が咲き始める。

いつのまにこんなにとおどろくほどそれは咲いて。

芳香を放ちながらしだれ咲いているのだった。

手を差し伸べてそっとうけとめてみたくなる。

その花がそれを望んでいるのかはわからないけれど。


そんな衝動に駆られるときがひとにはある。

いいことだとかいけないことだとかいったい。

誰がそんなことを決められると言うのだろうか。

ただ受けとめるしかない現実にあふれているいま。

それが花であればどんなにいいだろうかとおもう。



2011年04月22日(金)

静か過ぎる雨。しんみりとその気配を感じる。

私にはもうじゅうぶんだと思えることがたくさんある。
これ以上恵まれることも。これ以上の幸せもいらない。

ただ生きたい。それが唯一の欲なのかもしれない。



元キャンディーズの田中好子の死。とてもショックだった・・。



2011年04月21日(木) 愛しさ

失いたくないとつよくつよく思うようになったこの頃。

なにもかもが当たり前のことなんかじゃなくて。

すべてがかけがえのないことのように思えてならない。

愛しさが日に日につのる。どうかこのままでいて。

どうかずっと変わらずにいてと祈るようになった。


今日の平穏をかみしめながら夜が更けていく。

心苦しさがうすれていくことを罪のように思いながら。

生きるしかない。かけがえのないものたちのために。

在り続けたいと思う。ちっぽけなひとりになって。

生かされている。それはとてもありがたいことだ。



2011年04月20日(水) 足るを知る

日々たんたんと目前の事をこなしていく毎日。
いつも通りのこと。普通の暮らしを心がける。

今期の川仕事も一段落してほっと息をつく。
やれるだけのことをやったのだと思う。
大変な事もあったけれどなんとかなったのだ。

足るを知るということばが身に沁みる。
もうじゅうぶん恵まれたのだと思えるようになった。



お昼。夜勤明けの息子が帰って来て三人で昼食。
相変わらず質素なものだけれど文句ひとつ言わず。
昨夜から何も食べていないのだと言いご飯を頬張る。

仕事の話しはいっさいしない。
あれほど辛がっていたのに愚痴ひとつ言わなかった。

被災地の避難所にいる人達のことを話し始めた。
小さな避難所では一日一食のところもあるんだぞ。
おにぎり一個とかパン一個しか食べられない人もいるんだからな。


仕事頑張ってねとは父も母も言わない。
明日は休みだという息子に「ゆっくり休みなさいよ」と言う。

うん、また来るわ。メシ食わせてくれよな。

またまた嵐のように息子が去って行く。

嵐の後の静けさに母はつぶやく。

あのこもうだいじょうぶかもしれないね。





2011年04月19日(火) せめて少しでも

寒の戻りを思わすような肌寒さ。
冷たい風が吹き荒れて身震いするばかり。

夕方近く大橋のたもとの東屋にお遍路さんがいた。
どうやらそこで野宿をするふうで気になって仕方がない。
おせっかいを承知で話しかけてみたらやはりそうだった。

お大師堂の場所を教えると「行ってみます」と言ってくれる。
その笑顔がとても嬉しかった。声をかけてみて良かったなと思う。

帰宅してずっと窓の外を見ていた。
大きな荷物を背負ったその人が土手を歩く姿が見えてほっとする。
冷たい風に立ち向かうように歩く姿に胸が熱くなるほどだった。

吹きっさらしの東屋で一夜を明かすことを思うと。
お大師堂の畳がどんなにかありがたいことだろう。
ぐっすりと眠ってまた明日から頑張ってほしいと願う。


お風呂にもはいれないひと。
お布団で寝ることもできないひと。

お遍路さんと被災地の人達が重なる。

せめて少しでもほっとする時間があればどんなにかいいだろうか。



2011年04月18日(月) 雨音

久しぶりに聞く雨音が胸に沁みる

しっとりと潤っていくもの

それは土手の草花だったり

芽吹いたばかりの木々の緑

わたしもどこか乾いていたのか

その水を求めてみたくなった

ざわざわとおちつかない心に

ひたひたちその水が流れ込む

これでいいのかこのままでと

だれにきけばいいのだろうか

だれにきけばいいのだろうか







2011年04月16日(土) ソウルメイト

いつもの散歩道を行けば
お大師堂の前で私を待っていてくれたひとがいた。

ほぼ一年ぶりの再会。懐かしさと嬉しさがこみ上げてくる。

修行僧のお遍路さん。会うのはこれで七回目となった。

よほど縁があるのでしょうねと微笑みあう。
とても不思議な縁のように私は思う。
初めて会ったのが一昨年の秋だったと記憶している。
その時の言葉に出来ないような懐かしさを今も忘れていない。

ソウルメイトという言葉があるがきっとそうなのだろう。


こんな時だからこそ。今日はそんなことを語り合った。
日々の暮らしを心苦しいとは思わずに
それはとてもありがたいことなのだと。
ひとつひとつをそう受け止めて過ごすようにと言われる。

そうしてこんな時だからこそ『慈悲』の心を失わないようにと。

こころが洗われたように清々しくなる。

またきっと会いましょうね。そう約束して家路についた。

ありがとうございましたとお互い手を合わせて別れたことだった。





2011年04月15日(金) 母子草

作業場の庭の片隅に母子草の花が咲く。
やわらかな黄色。とても優しい色をしている。

母子草とはいつの世に誰が名付けたのであろうか。
その名のとおりそれはほんとうに母と子のように寄り添う。

子を想わぬ母はいず母を想わぬ子はいない。

その絆ははかりしれないほど深いものだと信じる。


母を亡くした子。子を亡くした母。
痛ましい現実を目の当たりにしなければならないこの春。

けれども何事もなかったかのように花は咲くばかり。


おかあさんどこにもいかないでね

おかあさんずっとぼくのそばにいてね

やくそくだよ。ゆびきりげんまんだよ


やわらかな黄色が優しく微笑む。

寄り添う子たちを抱くようにしながらその花は咲く。



2011年04月14日(木) つばめ

今年はもう駄目なのかもしれないと諦めていたけれど。
今日はその姿を見つけてどんなにかほっとしたことか。

ツバメたちが帰って来てくれた。
我が家にふたつある古巣には近寄ろうとはしないけれど。
軒下にそれはいて安心しきったふうで羽根を休めていた。

それだけでじゅうぶんなのだと思う。

いつもとは違う春をツバメたちも察しているのかもしれない。
けれども帰る場所。そこで生きる術を知っているのだと思う。

もしかしたら古巣のことを思い出してくれるかもしれない。
そうしてそこでまた新しい命を育んでくれるかもしれない。

一縷の望みを抱いてその姿に手を合わせた。

帰って来てくれてありがとう。感謝の気持ちでいっぱいだ。






2011年04月13日(水) 息子

こんな大変な時に悩んでなんていられないだろう。
息子が言う。自分のことなんてどうでもよくなったよと。

乗り越えてくれたのかもしれないと父も母も少しほっとした。

質素な晩ご飯。白いご飯さえあればお茶漬けでもいいんだ。
そう言っておかわりをしてくれる息子に目頭が熱くなった。

南海大地震は必ず近いうちに来るんだと言う。
おとうもおかあも絶対に死ぬんじゃないぞと。

真ちゃんあんたもだよ。どこにいても無事でいてくれないと。


嵐のように息子が去って行く。その嵐がこんなに愛しい夜はない。





2011年04月12日(火) 風とたんぽぽ

桜の木の下のたんぽぽがすっかり綿毛になって

こころもち首をかしげるようにしながら風に吹かれている

いまはどこにも行きたくはないのだとひとりがつぶやく

けれども風まかせの身の上だものしかたないよともうひとりが

さびしがりやのひとりは一緒に行きたいよとみんなに言うけれど

風には風のしめいのようなものがあってどうすることもできない

せめてそよ吹く優しい風になりたくて微笑んでみるのだった

それがよいことなのかいけないことなのか風にはわからない


綿毛たちは自分が種なのだときづく未来もあれば希望もある

風さん風さん待っているひとがいてくれるのかもしれないね

わたし行くよとひとりがうなずくとみんなが勇気の声をあげた

風はせいいっぱい微笑むそうしてふわりふわりと種をはこんだ



2011年04月11日(月) エール

桜は散り急ぎずいぶんと葉桜が目立つようになった。
けれどもその緑がなんとも鮮やかに空に映えている。


辛い苦しいと嘆いていたら少しも前に進めないから。
とにかく笑顔で立ち向かっていくしかないんですよ。
大震災からひと月が経った今日の被災地からの言葉だった。

負けないで負けないでとエールをおくる。
そうしてその時間。手を合わせながら黙祷をした。


夕方。また大きな余震のニュースが流れる。
先日もあったばかりだというのに何と言うことだろう。
いったいいつまで苦しめれば気が済むというのだろう。
また天を恨みたくなった。心に杭が刺さったように痛む。

夕食時。だからと言って食べないわけにはいかないだろうと彼が言う。
普通にしているのがいちばんだとわかってはいるけれど。
その普通がなんと心苦しいことだろうか・・・。


嘆いていてもなにもかいけつしない。
笑顔で立ち向かっていくのだと言ったひとの言葉を思い出す。

負けないで負けないで。そう心でつぶやきながら。

晩ご飯を食べた。甘エビのお刺身が美味いじゃないかと彼が微笑む。






2011年04月09日(土) 桜吹雪

気温がぐんぐんと高くなりまるで初夏のような陽気となる。
風に桜の花びらが舞う。散っているのではなく舞っている。

儚さやさびしさを忘れさすかのようにそれはとても美しかった。



ふつうにしていましょうよと友が言う。
ふつうに仕事をしてふつうにご飯を食べて。
お風呂に入ってビールも飲んだらいいよと。

なんだか胸の中にあったかたまりがふわっとやわらかくなった。
気が楽になる。だってそのふつうがとても心苦しかったから。
あたりまえのことがずっとあたりまえではないように思っていたから。

ふつう。なんてありがたいことなのだろうとつくづく思う。


川仕事をがんばる。お昼は作業場でおにぎりを食べる。
少しだけお昼寝をしてからいつもの散歩道を歩いた。
晩ご飯はトンカツにする。キャベツは畑でとれたもの。
お風呂に入りまったりとする。そうしてビールを飲む。


ふつう。こうして生きているのがわたしの日常。

ふつうにしていました。これがありのままのわたしですもの。



2011年04月08日(金) 桜雨

なにごともなかったように雨はふる

桜はうつむくこともせずそんな空をあおぐ

しかたのないことなのだよと誰かが言った

どうしようもできないのだものとまた誰かが

わたしはかなしくてたまらなくなって空にきく

どうしてどうしてとおなじことばを繰り返す

かみさまはきっといるのだと信じているから

かみさまのことをきらいになんてなりはしない

もしかしたらかみさまが泣いているのかもしれない

桜はそんな涙をせいいっぱいにうけとめているのか





被災地に追い討ちをかけるような大きな余震。
必死に耐えている人達になんて酷い仕打ちをと。
天を恨みたくなった。こんな酷いことがあってよいのか・・。
亡くなった方もいると聞き遣り切れない思いでいっぱいになる。

何もチカラにはなれない無力感にまた苛まれているけれど。
ひたすら祈り続ける。どうかどうか・・そればかり繰り返している。



2011年04月07日(木) いのち

明日は雨になると言う

雨に打たれる桜をおもう

痛くはないか辛くはないか

いいえ生きていますから

いいえ生きていますから


いのちのことをこれほどまでに

ふかくふかくかんじた春はなかった


生きているだけでじゅうぶんだと

微笑むひとたちがそこにいる

どんなにかつらいことだろう

どんなにか悲しいことだろう


いいえ生きていますから

いいえ生きていますから


春よどうか抱きしめてあげてください

春よかけがえのないいのちを守ってあげてください










2011年04月06日(水) 恵み

心を痛めつつも日々の暮らしを精一杯に。
そうでなければいけないように思って。
今日も暮れていく。なんと平穏なことだろう。

心苦しさを覆い隠すようにありがたさをかみしめている。


今日は海苔の出荷日だった。
津波の被害はあったもののわずかに残ってくれた海苔。
その海苔が順調に生育してくれたおかげで収穫が出来た。

自然まかせのこと。一時は嘆くことはあっても。
こうして救われる事もある。恵まれる事もある。

被災地を思えば申し訳ない気持ちにもなるけれど。
とても複雑な気持ちになりながらも素直に感謝している。

なんとか暮しのめどが立つ。それはとても幸せなことだった。


けれども明日は我が身。そのことを決して忘れてはいけない。



満開の桜を今日も仰ぐ。

やがて儚くそれは散っていくだろう。

せつないけれど潔く散る花。

そんなふうに生きていたいとしみじみとおもった。



2011年04月05日(火) 花冷え

霜注意報があった朝。
冬のそれほどではないけれど肌寒さを感じる。

桜の季節にはかならずある花冷え。
ほぼ満開となった桜が寒さを恋しがるのだろうか。

寒さあってこそ咲いた花。
なんども言うけれど今年ほど胸に沁みることはない。

胸の痛みを癒すように桜は咲いてくれる。

なにがあってもどんな時でもその季節がめぐってくる。



山里に向かえば、もう田植えの準備が始まっていた。
そんな頃なのかと思うと日々がとてつもなくはやく。
流れているように感じた。前へ前へとそれがすすむ。

いかなくちゃとわたしもおもう。

いってみないとわからないところ。

いかなくちゃ。いかなくちゃ。




2011年04月04日(月) 日が暮れて

その犬の名はバンちゃん。
先日気仙沼沖で奇跡的に救助された犬だった。

飼い主と再会する事が出来てほんとうに良かった。
尻尾を千切れんばかりに振りながら嬉しそうな姿。

抱きしめる飼い主さん。愛しくてたまらないいのち。

感動で胸がいっぱいになる。涙があふれるニュースだった。




いいか、もし大きな地震が来たらすぐに高台に逃げろ。
俺は浜の地区へ行く。一人でも多くの人を避難させないといけない。
逃げる時に犬を放せ。絶対に一緒に連れて行こうとするな。

何度も何度も彼は言う。それは真剣な目をして私に言い聞かす。

それはいったいいつのことなのか。
今夜かもしれない明日かもしれないといつも不安に思う。


そうしながら平穏に一日が暮れていくありがたさをかみしめている。







2011年04月02日(土) 春風

自転車で買物に行く

春風がとても心地よい

風にふかれていると

胸の中がすぅっとする

沈みがちなきぶんとか

心ぐるしいきぶんとか

だいじょうぶだよと

風がはげましてくれる

びゅんびゅんびゅん

びゅんびゅんびゅん







お大師堂でお遍路さんに会った。
去年から数えて三度目の再会だった。
ちゃんと憶えていてくれたのが嬉しい。

私のことを「おかあさん」って呼ぶ。
なんかくすぐったいような気持ちだ。

縁ってほんとにふしぎ。

縁ってありがたいものだなとつくづく思う。



2011年04月01日(金) 卯月

桜並木をあおいだ。
昨日よりも今日と桜色に満ちている。

胸が熱くなる。痛いような熱さ。
毎年咲いているはずの桜の花が。
今年ほど胸に沁みることはない。

いつの春だったか。私は明日死ぬかもしれないとおそれ。
まるでそれが見納めのように思ってその花を仰いだことがある。

けれどもことしの春はちがう。
なんとしても生きていたいとつよくおもう。
死んでたまるかと勇気のようにそうおもう。

なんでもないような平凡ないちにちが愛しい。
平穏であることが今はとても心苦しいけれど。

ああ今日も生きていてよかったと素直におもう。




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