かたほうだけのパンプス
敦子



 竹富島を調べることになったのは・・・

先祖の地沖縄県「竹富島」を調べ、未来永劫に残すための歴史・文化探求保存をする気になったのは今から一年半ほど前、私に供養を求めている先祖がいるとSNSのチャットで霊視されたことが発端。
歴史の興味や趣味とかではなく、すでに亡くなった血縁の声なき声を探し、先祖からの持越しとなっている事を解決していくことが目的。

霊視されたことが、心の隅に引っかかっていた。
やろう!できる!絶対にやろう!と思い動きだしたのが去年の一月頃から。
はじめは手探りで、わからないことがわからなかった。
でもやっていく毎日。急には見えなかった何かは、ぼんやりとシルエットのよように姿を現しはじめた。

まず認知症になってきた父から少しずつ話を聞き出した。
認知症の年寄りは、今を覚えて今に使える知識を今覚えることは出来ないが、昔のこはよく覚えていて話す。

父から話を聞き、関連を調べ、また聞き調べ。
そして竹富島へ行き、検証しようと!
ということで今年の二月に竹富島へ。
行くことにったのは、これもSNSから。
それは・・・

父は、日本統治時代の南洋、サイパンのガラパン島で生まれた。
父の場合は、戦争が始まるというので強制的に日本へ帰された。
父のような日本統治時代の南洋からの帰還者の「南洋群島帰還者」の会が作られていた。
会で何度も慰霊のために南洋へ行ているらしい。
そこで「南洋群島帰還者の会」のSNSにアクセスしたら、私が辿っている先祖のことのために協力を得られることになった。
南洋群島帰還者の方から直接お話し聞きに一緒に八重山へ行きませんか?ということから八重山へ行くことになった。

実は、それが不思議なことの連続となった。
これは、竹富島の「力」かな?(不思議な?)といい方に考えることにした。

私は、8年前に脳卒中で倒れて左半身に麻痺がでた。日々、回復中だが、今現在は杖を使用して歩行している。
杖なくても歩けないことはないが、道の悪いところや、ずっと立ち止まっていることはできない。
日によってバランスがとれない。だから一人で遠出は無理だし、想像もしなかった。
彼らの支援があるということで安心しきって行くことを決断した。
が、行く直前の二三日前に大雪。
そして行く直前にSNSで知り合った「南洋群島帰還者の会」の人から一緒に行動できません。
との電話が〜。
航空チケットとホテル取っちゃったのでキャンセルはもうできないのでダメもとで行くことにした。

飛行機に乗るまでに何度も絶対絶命かっ?!と思うような想像もしなかったようなことが続いた。
もうダメかもしれない!ということの連続を乗り越えられ、
石垣島の新空港「南島(ぱいぬじま)石垣空港」へ到着。

※南島(ぱいぬじま)とい言い方は、かつてはあまりいい意味では使われていなかったが、
今では、ちょっとかっこいい意味合いで使っているみたいだ。

空港には、前日に急きょ迎えに行くからと電話をくれた親戚が迎えに来てくれていた。
そして、ぎりぎりで船に乗せてもらえて竹富島へ。
竹富島の桟橋で風に吹かれ、民宿を営む親戚が待っていてくれた。

飛行機に乗って石垣島へ着いてからとんとん拍子だった。
以前もそうだった。
今からちょうど30年前。
あのときも一人だった。

今回は、30年前に迎えてくれた人のほとんどが亡くなっていたり、話すことができなくなっていた。
けれど、私が結婚するまでの本籍地の土地を守り続けている民宿を経営する親戚のおじ夫婦は元気だった。
そこで色々聞いた。

ひとつは、私の供養を求めている先祖が誰なのか?
ひとつは、祖父の死ぬまでの軌跡についての手がかり。
そのほか色々聞いた。

一泊しか予定してなかったが、石垣島で親戚のところへ泊まったり、短い日程の間に密度の濃い情報が得られた。

そこで私がやらなくてはいけない先祖からの持越しの問題が見えてきた。

こういうことになるとは思ってなかった。
南洋群島帰還者の会の方とではここまでのことはわからなかった。
きっと、先祖が導いたのだと思った。

私がこうなったのは、私にしかできないことだからなのだろう。
父方の先祖の問題。
母方の祖母の実家の問題。
父方の祖母の家系のこと。
東京在の竹富島出身者の二世、三世、四世・・・。
とにかく世界に過去未来に散って行った竹富島の血縁のある方のために未来永劫に伝えるための活動をし続けるのだ。







2014年06月18日(水)
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