かたほうだけのパンプス
敦子
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世界遺産富岡製糸場の群馬養蚕の凄さ!
ゴールデンウィークは、世界遺産登録に決まることになった群馬県富岡市の富岡製糸場に人が殺到!富岡製糸場公開史上最高の8千人の人がつめかけたそうだ。このホットなニュースが群馬を駆け抜けたその日4月27日は地元紙
上毛新聞は号外
を発行したらしい。夫のラリー友達は、世界遺産富岡製糸場絹遺産群の田島弥平旧宅の親戚で、今回の世界遺産登録にたいして複雑らしい内情を言っていた。
地元の人は、そういうバックグランドのなかでこの発表を受けとめている。
昨日、私は伊勢崎の長閑なというか手付かずな取り残されたような雑地のなかを歩いていた。通院のためだった。いつもは夫の車で一緒だが今度の土曜日は夫が仕事だし、もう手元に薬がないのでひとり市内の無料バスに揺られて行った。雑地の真ん中に看板を見つけた。
群馬県農家祖先の行動を伝える
この桑は蚕の餌となり立派な「まゆ」が出来て
人間の生活が成り立ったのです。
昔の群馬県は養蚕県であった。従って養蚕で
生活が成り立った時代もあったのです。
その実態を下記の通り伝える。
過去最多総農家戸数・・125,257戸
内養蚕農家戸数・・・87,867戸
養蚕農家の比率は・・70,15%
・・・・・・・・・・・・・・・・明治34年が養蚕農家戸数最高であった。
普通畑総面積は・・・79,646ha
内桑園面積は・・・48,170ha
桑園面積の比率は・・・60.48%
・・・・・・・・・・・・・・・昭和5年が桑園面積最高であった。
更に収繭量は、30,097tであった。昭和14年が収繭量では最高であった。
というふうなことが書かれている。
富岡製糸場という建物に殺到するが、群馬県は、絹産業という群馬県自体が世界遺産に認められたようなそんな気分でもある。
この看板でもわかるとおり、いかに群馬県が養蚕県だったかということがわかる。
伊勢崎市の大きめのスーパー、葬儀場などはたいていが繊維工場の跡地なのだ。
去年行ってみたのは、絹遺産ではあるが全然話題になっていない蓮根の大クワ。沼田市にある。民家のなかにあって1686年に検地のときの目印にした巨木で今も残っている。というよりも今もなんとか残し守っている。
これまでは群馬県内での養蚕業の凄さを称えている様子だが、竹富島の子孫として凄さを書き留めておきたい。
これは30年前になるが、竹富島の私たちのおじさんが、蚕を飼っていた。今はやってはいない。
昔、大正時代に沖縄の八重山でもお蚕はやってはいた。でもきっと本格的にやろうということになったのだろう。大正12~13年の頃に八重山の竹富島、黒島、小浜、新城の島々に群馬県から養蚕教師「小畑伝八」という人を招聘していた。これはその当時に竹富役場に勤めていて同行していた方の記録で知った。あくまで当時竹富役場に勤めていた人の個人記録なので小畑伝八という養蚕教師のことを確認したわけではないが、いかに群馬県の養蚕が凄かったかがうかがえる。
2014年05月08日(木)
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