大阪湾を鮮やかなオレンジに染めていた残照の最後の一筋が六甲山の稜線に消えた瞬間、景色は人工的なLEDのブルーがくまなく照らす光の海へと一変した。 ビルの照明が灯りはじめ、足元の蓄光素材が煌めくと、さながら豪華なクリスマスツリーの中心に立っているかのような眩さである。はじめて見るなら、たいていの人間は息を飲むほどの見事な展望なのだが、ひしめくカップルたちの目に映っているかどうかは定かでない。多分彼らには相手の顔しか見えていないだろう。 そんならわざわざこんなトコまで来んでも、と顔をしかめてみたのはささやかな抵抗だったかもしれない。 高層ビルが立ち並ぶ梅田の界隈でも、最も高いビルの屋上に設えられた展望台はいつからか恋人の聖地、と称され、週末はもちろん、イベントのある日には勝負服でめかしこんだカップルで身動きが取れないほどになる。 今日、12月24日は、言うまでもなく一年中で最も混雑している上に、カップル率の高さと言ったらほぼ100パーセントに近かった。普段着でうろうろしている独り者は服部くらいのものだ。 目的があってここに来たわけではない。待ち合わせでもない。 年末年始の服部家は例年、猫の手も借りたい程の忙しさで、クリスマスを祝う雰囲気ではなく、今日も母親にあれこれ言い渡された使い走り――挨拶に来る府警の面々をもてなす食材やら、年始のタオルやら、母親の新しい足袋やらのこまごまとした買い物だ――をようやく終えたところだった。たまたま通りかかった展望台で一息つこう、と両脇の荷物を抱え直して昇ってみたはいいが、この混雑では休憩どころではない。 ……帰ろ。 ぶつけどころのない己が判断の誤りにため息ついて顔を上げ、それから急に思いついて尻ポケットから携帯を取り出すと、服部は人混みをかき分けて展望デッキの隅へ寄り、登録してある番号を押しはじめた。 この景色を共有したい相手は、恐らく小学校の冬休みで暇を持て余しているに違いない。 わずかワンコールで繋がった相手もこちらの番号を登録してあるらしく、いささか訝しげな声で名を呼んだ。 「……服部?」 「よぉ久し振りやな、元気か工藤」 素早く物陰に身を潜める小学生の姿が目に浮かぶようで、自然と顔が緩む。リアルに目の前にいたら間違いなくてのひらで小さな頭をくしゃくしゃとかき回しているところだ。 「別にフツー。何か用か」 「いや、あの……その」 「用がねぇなら切るぞ」 「ちょ、ちょお待ち、えーっと、せや工藤、ケンタとモスチキンとどっち派」 「は?」 数秒、間があって。 電話口の向こうで、くすくすと笑う気配に、服部はようやく緊張を解いて携帯を耳に当て直した。最近の機種は性能がいいのか、遠い東都との通話でもすぐそこに居るみたいにクリアに声が届く。 「ウチは毎年蘭がチキン焼くからな、買ったことねえよ」 「さよか、ええなあ、ねーちゃん料理上手やから」 「今日も朝から張り切ってしたくしてるぜ。探偵団のみんなも呼ぶんだってよ。オマエは?」 「クリスマスは毎年独りモンの刑事さんら招待してすき焼きかふぐちりやな、おかんに牛肉買いに行かされたから今年はすき焼きやろ。今日なんか一日中おかんの使いっぱや……あ、すんません」 最後の言葉は肩が当たったカップルに対してだった。例によってお互いしか見えていない彼らは服部を透明人間か何かみたいに無視して通り過ぎていく。 「どうした?」 「あ、いま梅田の展望台におってな」 「あー……あそこか、カップルだらけだろ今日なんか」 「せやせや、参るわ」 「ばーか、なんでそんなトコ行ったんだよ、デートか?」 「ちゃうちゃう、オレひとりやで」 慌てて否定した後、自覚していなかった気持ちに思い当たり、服部は電話を遠ざけてこっそりと唾を飲み込んだ。 自分がここに来たのは。 ここから電話したのは。 それは。 「……いつか、工藤、と」 「ん?」 「いや、なんでもない」 変なヤツ、と笑う工藤の声が不意に遠くなった気がして慌てて画面を見れば、この肝心な時に充電が残り一個。もう少し話していたかったがやむを得ない。半端に切れてしまってはかえって後味が悪い。名残惜しいが会話をまとめることにしようと服部はやや強引にセリフを継いだ。 「ええと、メリー・クリスマス、工藤」 「似合わねぇ」 「じゃかしいわ、ほなまたな」 「んじゃ。――あ、服部」 「?」 「いつか、そこで、一緒に過ご、」 ピピピッ。 耳障りな電子音が鳴り、待受を見ると「充電が切れました」のメッセージが表示されていた。後はツーツーツーと無常な音を発するばかりだ。最後の言葉は雑音に紛れてほとんど服部の耳には届いていなかった。けれど。 ――ま、ええか。 カップルをかき分けて出口へ向かう服部の口元には、まるで眼下にきらめく夜景みたいに、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
数年後。 「なーあの階段の上、カップル専用シートなんや、ふたりで座ろ? な、な工藤?」 「……ぜってー、やだ」 「ええっ、な、なんで、ほなあっちの小部屋は? うわオリジナルドリンクやて!」 「…………」 梅田のスカイデッキでは、うきうき度120パーセントで走り回る服部平次と、恥ずかしさに三点リーダー満載の工藤新一の姿が目撃されたという。
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