過去日記倉庫(仮名)
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フリフリのおれ的わたし的ベスト2007はこちらより
| 2006年02月25日(土) |
音楽が好き / 愛が死より冷たいならば死体は命より暖かい |
先日紹介した、コインランドリーで見かけたチラシの銭湯ライブイベント風呂ロックの記事を見つけました。楽しそう…やっぱりレゲエなのか。DJとかでもいいんだけど生演奏であってほしいな。バックに絵があるのがすてき(笑)。次回はたまの方が出るとのこと。
雨が降ってちょっとだけ冷えている。また風邪っぽい…と思いながら体育座りでモグワイ鑑賞。始めの方のボーカルがボコボコ言ってて聞こえづらいのがこわいな。入水して体はうちあげられても言いたいことだけが残っている、その言葉って感じ。あるいは水槽からのメッセージ。部屋であなたを飼っているの。そういうホラー映画なかったっけ…Happy Songs for Happy Peopleっていうタイトルもホラーっぽい。まんなかのBoring Machines Disturbs Sleep、Ratts of the Capital、I Know You Are But What Am I?が好きだ。
その後くらいからやっとふつうにボーカルが入っている曲が出てくると思ったんだけど、見つけきれない。それくらいボーッとしている。特に思い入れがあるわけではなく、TSUTAYAで手当りしだいに借りて入れてる音源のひとつで、なんだっけこれ?と聴き直しただけ。たぶん明日にはまた忘れてる。すごい繊細につくりこまれたノイズがすばらしいと思うしメロディもいいんだけど(supersilenceを聴いた後で、やっぱこういう音楽を通ったものなんだなと気付いたり)、その感触の心地よさが軽く刻印されただけで、内容が具体的に記憶に含み込まれることはたぶん無い。
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内橋和久さんつながりで、Good Girl Bluesの大谷能生のイベントレビューにリンク。宇波拓さんのヒバリ日誌を愛読していたのですが(ライブは未見)、そこにはあんまり音楽、ご自身の考え方などは書いていなかったので、現在の演奏方法に到る経緯がわかってよかったです。あとでまた死霊のコンピュータ(宇波・マッティンのデュオアルバム。全曲6分66秒!のインプロ)を聴いてみるか…今日の題名の愛は〜はこのジャケ内側に書かれた英文のフレーズで、ファスビンダーが言ったように愛が死よりも冷たいならばゾンビは命(あるいは人生、生きていた時)よりも暖かいという言葉とともに泉さんのコワかわいらしいイラストが…
そこで言及されている内橋さんのワークショップというのは神戸ビッグアップルというライブハウスで行われたセッションのことだと思われます。詳しくは大阪ウェブマガジンのインタビューをごらん下さい。また古いですがImprovised Music from Japan のインタビューもリンク)「個々が完成されたミュージシャンとして遇され」というのは、これは最初に自己紹介というか必ず参加者の前でソロ演奏を披露しなければならないというのを指しているのだろうか。
もちろん、演奏スタイルやキャリア、技術の度合いに関わらず平等に、ひとりの演奏者として敬意を払って扱われるということはあるんだろうけど、演奏者にとっては必ずソロ演奏をしなければならない、というのは大きいんじゃないかと思います。私だけかもしれませんが…恐怖に等しいプレッシャーがありました。実際に先月26日に内橋さんを始めとしてセッション参加者の前でやった時は十分にやりたいことができたとは言えなかった。日頃ふつうのセッションでもソロ演奏は苦手なので、何か音が出せただけでもよかったんだけど。
ソロ演奏が苦手、できるならやりたくないというのは非常に重要な問題で、ほとんど基本とか原理にかかわることでしょう。単純に、お前は誰かに自分の演奏を見て/聴いてほしいと思わないのか?じゃあやるなよということで、また内橋さんが必ず口にされる「ソロができなければ意味が無い」というのもよくわかる。ひいては音楽に限らず自己表現ということにも関わってくることで、面倒くさいのでここで書こうとは思わないし、自分の中で結論が出ているわけではない。でもこれは結論とかいうことでもないのかなあと思ったりもします。って何が言いたいのか。
音楽が好きとひとことで言うことにも、音楽の何が好き、どういうふうに好き、というあり方が人によってそれぞれ違っているなと思う。聴くだけにしても、ジャンルというか、いくつかのバンドが共通して表現するスタイルとかポリシーに興味がある人もいれば、アーティストを人間として好きな人もいるし、私のように、その時そこに集まったバンド、そこでその時演奏された曲、その時のひとつの音が出た瞬間そのものに魅了されてやまない超具体的な感性の人間もいたりする。
先にあげた宇波拓さんの話でも具体音表現ということは詰めて考えたことはないのですが、感覚的に共感する所があった。あのスピーカーの上でクリップや米を置いて鳴らすっていうのはパーカッション演奏の発展形というふうに思える。そういう紙とか軽いものをきれいに鳴らすというのは手では難しい。太鼓をプリペアドするのではなく、そこに乗せているものそのものの音を聴かせたいと思うこともある。あるいは楽器の本音をうならせるオブジェクトそのものの音を取り出してみたいとか。
しばらくずっとそんな感じで、音楽を文脈で考えて、抽象的にこういうことを言いたいとか、ハーモニーとかリズムをどう組み合わせて綴って行くかということにはあまり興味が無くなってきた。そういう具体的な音に淫するというのは子供がえり的というが退行→待避→回避になるのかなあ。それもその人しだいだよね。どうすればおもしろいか、どうするのが好きなのか、というのが問題だから。しかし何か決定的に飽きたという所はある。ある程度長く生きて、いろんなことに飽きたというのと同じ当たり前のことなんだけど。まだそれに慣れてないだけで、困惑してどうにかしたいと思っているだけなのかもしれないな。
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