蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 無題(3)

あれはまだ夏に差し掛かる前の、雨の日だった。

旧校舎と新校舎を繋ぐ、長い廊下。距離にして十メートル以上あるその廊下を、一人歩いていた。

その内この廊下も通行禁止にして、古びた旧校舎に入れなくする、という計画がある場所らしい。旧校舎と言えば、物置として使われる教室の他、移動教室に使うぐらいの使用頻度しかないのだから、その決定は仕方のないものに思えた。

ただ、老朽化が原因というわりには、壁や廊下に傷みはあまり感じない。綺麗な場所ではないけれど、目に留まるほど古びてはいないということだ。

吹奏楽部の練習室は、この長い廊下の先にあった。ある程度の場所を確保する必要がある部には、この旧校舎は丁度都合の良いものだった。ひっきりなしに、色んな楽器の音が聞こえてくる。何の楽器がその音を出しているのか、全くわからないしあまり興味もない。シュウスケが入っているから、という理由だけであたしは吹奏楽部に入り浸っている単なる暇人だった。

『何か部活入れよ』

という彼の台詞も、二年も半ば過ぎれば聞かれなくなった。諦めたらしい。だいたい受験を考え始めるこの学年から部活に入る人間は、早々いないはずだ。ましてやここは進学校なのだから、その風潮は余計だった。そうでなくても、あたしは部活なんて入る気はちっともなかった。シュウスケの傍にいたかった。

だから同じ高校まで入ったし、こんなに傍にいようとする。幼馴染という立場にいるのは主にあたしだけで、シュウスケはあたしにあまり関心を払わない。それでもいいと思っていた。好きだった。ただそれだけだった。なのに、最後の一言だけはどうしても言えずに、時間だけが過ぎていった。

『…ごめんね、』

旧校舎に響き渡る管楽器らしい音に混じって、切れ切れに声が聞こえた。思わず足を止めた。

『別れたいわけじゃなの。でも、今は色々と忙しくて。わかるでしょう? 受験のこともあるし、一度ゆっくり考えたいのよ』

困ったような感情は滲ませているけど、低めのそれは比較的落ち着きを感じさせる。廊下を渡りきってすぐ、のところで話しているらしいと見当が付いた。誰だろう。この場所なら吹奏楽部の人だろうか。聞き覚えがある気はする。でも、すぐに顔は思い浮かばなかった。

内容からして、友達同士の会話というわけじゃないらしい。かと言って、今更引き返せない。中途半端に立ち聞きして、後から変に勘ぐられても困る。
それなら思い切って通ってしまうに限る。

『いいですよ、俺は』

そう思って再び歩き出したあたしの耳に、今度は聞きなれた声が届いた。息が止まる。すぐにわかった。シュウスケだ。

他人事である別れ話なんて、噂話のネタにはなっても、自分に何の害もない。今、すぐ近くで行われている話も、あたしにとってそうであるはずだった。だから、堂々と通り過ぎて、何なら顔くらい見てやろうなんて頭の隅っこで考えていたぐらいだ。

唐突のことに、頭が混乱する。
何で。そして。誰と?

『先輩も部のほうへはしばらく来れないでしょ? ちょうどいい。俺も少し離れたいって、そう思ってたんです』
『シュウく…』
『別れませんか、俺達』

感情なく言い切るシュウスケ。沈黙。相手の人は何も答えない。空気が重くなる。止まったままの足の先を見つめ、あたしはじっとしているしかなかった。シュウスケが別れる? 誰かと付き合ってたってこと?そんなの、ちっとも。知らない。

『じゃあ練習あるんで。もういいですよね』

じゃり、と音がした。廊下の曲がり角から人が早足で出てくる。顔に見覚えがあった。シュウスケと同じクラリネットの――。その人は廊下に立ち止まるあたしに驚いて、一度立ち止まった。どうしていいかわからなくて会釈するあたしの横を、相手は黙って通り過ぎて行った。咎められることもなく、相手はただ無表情で唇を噛んでいた。

ナミコ先輩。胸の中でその名を呟く。シュウスケがとても尊敬して、傾倒していた人。その人と、付き合っていて。そして今、別れて?頭の中がごちゃごちゃして、わからなくなる。そんな話、噂でも聞いたことがなかった。シュウスケは好きなのかも、そう思ってはいたけど。でも。

『何やってんだよ、お前。そんなところで』
『…シュウスケ』

顔を上げれば、シュウスケが立っていた。掠れた声。切れ長の瞳が、僅かに揺れる。壊れてしまいそう。この人は泣きたいんじゃないか。何故だかそう思った。

見ていられなくてその頬に、そっと手を伸ばした。

どうしてそういうことになったのか、わからなかった。何を話したのか。何を聞いたのか。どこをどう歩いたのか。何にもわからないままに、あたしはシュウスケと手を繋いで、歩いていた。前後は覚えていないくせに、初めて手を繋いだことだけは強く記憶に残った。制服のままだとかそんなこと、気にしてすらいなかったように思う。今思えば、よく誰にも見られなかったものだと。

規律の厳しいこの高校では、あんな所に制服でいるのが見つかれば、即退学処分になっていただろう。普通じゃなかった。浮かされていた。何とかしてあげたかった。してあげられることなんて、本当はないってわかっていたけど。

今だけでいいから、代わりにしていいから。
一緒にいたい。強くあたしはそう思っていた。

2007年12月08日(土)
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