舌の色はピンク
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2022年04月20日(水) 和の精神、日米仏の論理、寄り添い

雨。なんか寒い。

弁当は豚肉茄子バルサミコソテー。
醤油はきもち少なめ。


ネット上で見かけた話。
過去、村を作り上げるゲームで
外国人プレイヤーの隣に領地を設けてしまったと。
そのプレイヤーとは同盟関係になく、
すると限られた資源の奪い合いという事情から、
いろいろとリスクが発生してしまうと。
で、同地にある資源を、じゃあ2分割するのが
両者がうまくやっていく公平な折り合い方であろうと
投稿者は思ったらしいのだが、
外国人プレイヤーは2あるうちの2つともをよこせという。
不本意ではあるものの、これがきっかけで
各々が所属しているチーム同士の戦争が起こりうる恐れを見越して、
要求を呑んだと。
そしたら今度は、やっぱお前出て行けと。邪魔だと。
せっかくこの前は折れてやったというのに、
これでは全面的に取られ損で理不尽だ、
これは呑めないと撥ねつけたと。
で、
仲間のみんなもそりゃあフザけた話だと共感してくれたと。
でも仲間の外国人がいうには、
向こうは向こうで当然の振る舞いをしているだけだと。
取られたくないならはじめからそういう態度で臨めばいいのに、
一度言いなりになったくせしていきなり反抗してきたら、逆に
なんだコイツわけわかんねえ、となると。
だから、はじめから撥ねつけるべきだったんだと。

日本人の考え方を当たり前にしていると
あたかもそれが正常で
それ以外を異常にとらえてしまいがちだけれど
なるべく多角的視点をもっていきたいですね、
という話にまとまっていて、
まぁそれはそうなんだけれども、
“和の精神”をあんまり対外的にさげすまんでもいいと思う。
「グローバル社会を勝ち抜くためには」とかいうアホなお題目の上では、
たしかに和の精神は非合理で非発展的で、数々の問題をはらんでいる。
でもそれは
「グローバル社会を勝ち抜くためには」とかいうアホなお題目の上で通じるだけで、
別にこれはこれで、普遍的ではない。

あと別のちょっと面白かった記事をメモ。
出版された本の著者のインタビューらしかったけど、
主題が論理について。
論理といえばさも普遍的で、扱い主を問わず、
恣意的な揺らぎが除外された画一の原理があるようだけれど、
実際には全然そんなこと無いよねっていう。
その具体例として、アメリカにおける論理と
フランスにおける論理の違いを挙げていた。
アメリカの大学では、ことさらにエビデンスが重視される。
主張があり、証拠となる材料を3つ上げて結論に至る。
この定式をより実現している論法こそが強い論理だと。
比べてフランスでは弁証法を重視する。
主張があり、それに反する論を自ら挙げ、
両者の矛盾点を調停させた新たなる主張を叩き上げる。
アメリカの方はスピーディーで主格が明確で、
とかくビジネスに最適の論理とされる一方、
フランスの方は反証に過去の哲学者の弁を引用するのが常であったりして
政治的な意見を構築するのに最適であるらしい。
うーん面白い。
この本買って読みたいな。


トキノを書き終わり、
いよいよ割拠の方を再開させようと初めから読み直してみた。
読めたもんじゃないだろうと思われたが
案外面白かったしヘタでもなかった。
というか書きたいこと書いてるだけあって
心境の文章はかなりキレてる。
同じ文を今書けってなっても書けんだろうな。
なのに続きを書かなければならんのだ…。
なんて楽しみなんだ…。


ちょっとだけ書き進めてみたら、書ける。
ああ、最後までたどり着くの楽しみだな。
産みの苦しみ絶対きついけど、楽しみありあまってるな。
これまで書いたことのない、激情の嵐を文にしたためてみたい。


夕飯は牛肉キノコ野菜の中華風あんかけ。
ちょっとだけ塩分控えめ。
正直、もっと醤油を足した方が美味しいのは明らかだったけど、
このくらいの塩分濃度に慣れていきたい。


寄り添いについて。
Twitter上で相互フォロー関係にある、
僕の敬愛している氏が、
「”寄り添い”が具体的に何を指しているかわからない」
と問題提起していた。
ここしばらくで見聞きするようになった、
主だってフェミ関連…もうちょっと広くいって、
女性を主格とする文脈で用いられやすい言葉だ。
氏は、「共感する」との違いが不分明だと指摘する。
どんな具体的な行動をもってして、「寄り添う」となるのか。
それは、いうなれば「忖度する」に置き換えられてしまえないか。
といった問題提起…というか他意を含まない
単純な”疑問”として提示されていて、
なるほどこれは一考の余地あると僕も思考を働かせてみたのだった。

その糸口は思わぬところから。
数年前に拡散されたギャルのツイート、
天皇の誕生日をものすごく軽く、しかし親しげに、
ハートマーク付きで「おめでと」と祝い、
「あんま絡みないけどこれからもよろしくね」
という一文を添えた……あの画像。
たぶん彼女からは遠い界隈にこそウケたあのツイート。
に対する言及で、
「これこそが我が国における天皇陛下の在り方を、
ほとんど理想的なまでに表しているんじゃないだろうか」
というものがある。
「”あんま絡みないけど”という言い方からは、
まるでたまには絡みがあったかのような印象を受けるが、
実際に”絡み”がなかったとしても、
ここにはどこか、天皇陛下が我々に
寄り添ってくれているような体感が表れている…」
と続く(うろ覚えだけど)。

なるほど、ここでいう「寄り添う」は、
語法として昨今の文脈に導入されている「寄り添う」と合致するものだ。
しかし、「優しくする」とも「共感する」とも
「忖度する」とも言いかえができない。
天皇陛下が我々に向かって、直接的に何をしてくれたわけでもない。
ただ、我々の方
「寄り添ってくれている」
と(勝手に)感じられるかどうかが核心となっている。

これだ。
「優しくする」も「共感を示す」も「忖度する」も、
これらはいずれも能動者の行動および主観だけで成立しうる。
ところが「寄り添う」を判定するのは受動者の方だ。
具体的な行動がなんであれ、
あるいは行動がとられずとも、
この語は独立的な意味合いを確保できる。

「もっと被害者に寄り添った考え方をしてほしい」
という命題に対して、
「じゃあ具体的に何をすればいいっていうのか。
そうだね、大変だったね、と優しい言葉を向けたり
共感を示せばいいのか。
問題点を解消、解決する案を差し出せばいいのか。
多少おかしなところがあっても目をつむって、
被害者を全肯定するような忖度を計ればいいのか」
という考え方では、働きかけは能動者に閉じられている。
受動者(ここでは被害者)が
「優しくしてもらえた」
「共感してもらえた」
「肯定してもらえた」
と実感できて初めて「寄り添う」は実現する。
そういうことだと思います。


ここで問題提起が円環して、
「そうだったとして、じゃあ具体的に何をしたらいいの?」
となると話はこんがらがってくる。
僕が思うに「寄り添って」には、
(あなたの良識や誠意や動員して)
(何が寄り添うことになるのかを自分で考えて)
(能う限り実践してみてくれ)
といった含意がある。
つまり「何をしたらいいか」に対しては、
「自分で考えろ」が答えになるんじゃないか。
それができない、しようと思えない人物は、
すでに「寄り添い枠」から落選しているという。


昨日から引き続き、モロッコの民話。
ストーリーが説明不能だった。
面白かったけど。
タイトルの時点で面白いもんな。
「七人の兄を砂漠に追い出した娘」。
まあ実際には追い出したのは叔母だったんだけど…。


れどれ |MAIL