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■ そして心に悲しさを少し入れて
高知ひとり旅。 取材第一弾を終えてホテルで原稿まとめようと市内に帰ってきました。 高知って、あんまり観光するとこない…?高知城とはりまや橋と、あと「自由は土佐の山間より出ず」の立志社碑のみ見た。かずとよも興味ないし、映画「竜馬暗殺」は好きだけど龍馬はあんまり…。しょせん筋金入った佐幕派。 でもそこらへんの商店街流したらわりと面白かったです。 で、ホテルでパソコン借りられたので(有料)息抜きに日記書き中。 ライセンスオンライン見られるぜ。
高知は絶望的にお笑い番組が放映されないので、 地上波のお笑い簡易版はお休み。 まさか上方漫才大賞を放映しないとは!バカ!
今回の取材は連載もののインタビューでした。 私はいつもこの連載の取材でひとの人生というものを考える。それはインタビュー対象が人生を終えつつある人たちだから。 もちろんお仕事なのでお金を出す人の意に沿うよう、原稿に私情は挟まないし、どんなに伝えたいメッセージでも発注主の不利益になるなら書かないし、製品の称揚だってする。 でもそれとは別の次元で、毎回の取材で「いつでも顔を合わせられるようにしておきたい人」が増えていく。「あの人に顔向けができない」というときの「あの人」が増えることで、私はようやっと恥ずかしい考え方や生き方から掬い上げられているのではないかしら。2年前、3年前の私はすでにもう恥ずかしい。そして彼らが故人になっていくことで、つくろえない自問自答が深く深く沈んでいく。私は今あの人に顔向けできない生き方をしていないか。「恥ずかしい」という判断軸がブレてはいないか。 けっこう「善」というものについて思いめぐらせるこのごろです。そういえばいとうさんがだいぶ前に「善の衝動」の話をしていたなあ。みうらさん用の訳では「これからの俺ヤバイくらい善いんだ」ってこと。 たぶん人間の本性は善でも悪でもなくて、いつどんなタイミングで悪に転ぶかわからない。だからこそだれかの存在によって善に踏みとどまるし、善を選ぶこともできる。善は美しいこと、悪はみにくいこと。私は美しく生きられているか?むかしはこんな考え方こそが恥ずかしかった。 今日会った人は、病院から出してもらえなかった自分の50年を「ずるい」と笑った。笑えるまでが修羅だ。
2009年03月06日(金)
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