NO UNDERSTANDING, NO LIFE

2007年05月12日(土) 組織・企業体というもの

組織や企業体は、人間が力を合わせて動かす、大きなロボットだと思う。それによって、到底1人ではできないような大きなことができる。

そして大きなことができる代わりに、1人1人には「それぞれに要求された役割を求められるレベルで行うこと」が要求される。
そうでなければ、大きいことができる大きい力のものを動かすことはできない。

人間自体は、機械ではないと私は定義する。

「それぞれに要求された役割を求められたレベルで行うこと」
を私たちの能力の平均値でできるレベルで要求して、企業は成り立っている。

そして私たちは、たぶんできるだけ自分に合っていると思われる場所や職種を選択し、多くの人は会社に属す。

要求されることと、その人自身のバランスが取れていれば、何ら問題はない。むしろ、最高だろう。

だけど、それと同じくらい、持って生まれたその人の資質と企業体が求めることとのバランスが取れず、ロボットの一端を担うのに向かない場合もあるんだろう。

それは、その企業体のパーツで求められていることに答えられなかったり、答えたいと思わなかったり、いろいろなんだろう。
少し無理してでもメリットがあるから、納得して続けたり、それはその人の意思に任されることなんだろう。

ただいかなる場合でも、人間である以上、人間としての個性があり、それを最重要なものとする権利がある。
人間が主で、企業体は従である。
現実はそううまくはいかないと言われても、この関係は、人間の生きる尊厳である。
そして、それを守るのは、誰かではなく自分である。

私自身は、きまぐれで、要求された役割の幅の取り方が大きくて、ほどほどさがなく、ピントを合わせる感覚があまり備わっていないので、企業が求めるものに答えるのに、普通のひとよりも苦労する。苦労してもできないんじゃないかと思うくらいだ。自分でも思い違いではないか、自分のがんばりが足りないせいなのではないか、と自分を攻め立てたこともあったが、ずっと観察してみて、やはりそうだったので、もうそれでいいと思うことにした。

それぞれがそれぞれに決めた形が現在の姿で、それは何がいいということもないと思うのでいろいろでいいと思うが、できるだけ企業というものを客観的な視点でみると、こういうことは言えると思う。

要求された役割を求められるレベルで行うことは、当たり前である。でも、それは「当たり前にすぎない」のだ。当たり前以上でも以下でもない。1を1で保ち続ける作業。それが、企業で働くということである。職種によっては1ではダメで3や4にするのが当たり前というものもあるだろう。

これを、元々自分に近い状態でがんばっていればこなせる、または面白いことと思い、面白がってやれる人だったらいいのだろうが、自分じゃない人間を演じて、演じることに必死で、いつも何かを気にしておびえていて、自分じゃない人間になることをし続ける人もいると思う。

私は、自分を含めたそのような人に思うのだ。その後に一体何が残る?
私であることを閉じ込めて何が残る?

私は、いつも私でありたい。私以外の人間を演じたくない。私自身はそんな気持ちを持ち続けている。

企業というのは大きなメリットがある。
福利厚生が整っていること、一定の義務を果たしていれば、給料が一定額保証されること。これまで人類が、環境と闘ってきた時代から、目指してきた種の保存というか「安定」をもたらす。
これは、ものすごいことだ。地震や台風の力は今でももちろん猛威で、自然は人間の人生を揺るがす強力な力を持っているが、日常的な危機を安定に変えたということはすごいことなんだろう。でも人工だけどという点は残るけれど。

カンブリア宮殿を見ていると、いろんな会社があって、楽しそうな人もいる。企業もがんばってはいるのかもしれない。だけどできるだけ多数の人の幸福に添えるような模索が必要だ。でも元々人為的なもの。そこには限界があるのかもしれないと思う。

企業みたいなものがなくても、人々が豊かに満たされ、もっとシンプルに自分の資質を生かしたことで、人生に関わっていけるのであれば、それに越したことはない。企業がないと世の中は成り立たないと言うが、競争社会が土台でなくなったなら、そんな風に苦しまなくてもすむようになる気がする。

社会人としてのマナー、社会人としてのふるまい、社会人らしくあることではなく、愛のある人間であることがすべての世の中になる日がくる。それは自分自身であることであり、社会人という人になることではない。


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