カゼノトオリミチ
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2009年12月14日(月) 暖かくて静かな廊下の先

・ガラス張りの続く長い廊下には、弱い午後の日差しが暖かく、右側にはドアの開いた病室が並んでいました。

音がありません。患者さんは、みんなが眠って居るのか… 時折、道具を載せた台車をカラカラと引いた看護婦さんと、すれ違うくらいです。静かな陽だまりの廊下を行くと、その部屋がありました。



・父は入り口近くのベッドで、静かに寝ていました。眠っている顔は穏やかに見えました。

私が声もかけず立ちつくしていると、カーテンの向こうから声がしました。「寝ているの、寝ている時が一番いいのよ」

私は黙っていました。ひとりごとなのか、私に話しかけているのか…。

お隣のベッドに付き添っている、60代くらいの女の人でした。今度はカーテンを開けて、私に話しかけます。「なぜだかわかる?」私は少し笑ったような顔をしただけでした。

「寝ている時は苦しいこと、病気のこと、忘れていられるからね、目が覚めたらまた、苦しまなくてはならないの…。」つぶやくように言われました。

私はやっぱり黙っていました。そして父の目が、覚めないように、外へ飲み物を買いに出ました。いえ、逃げ出したかったのかもしれません。



・廊下を来たほうへと戻りながら、いま聞いた、ご婦人の言葉を頭の中で繰り返します。
…今、父は、どんな夢を見ているのだろう。

父はあの山へ帰りたいのだろうか。幼い頃に走り回った、強い風の吹くあの山と川に、戻りたいのだろうか。
それとも、いつものコタツの中へ、少しの畑と古いソファやボロボロのピアノのある我が家へ、戻りたいのだろうか。

願わくば今、続いている眠りの中で、どこへでも、好きなところへ飛んで行き、安らいでほしい… その夢がなるべくいつまでも、続いてほしい。

たましいの入れ物の肉体が、苦しみを伴って衰えてゆく… 私は、衰えてゆく父の肉体が悲しくてなりませんでした。

でもそれとともに、父の肉体が、やがて終りに向かっていくだろうそのことを、しっかり見届けなくてはいけない、それが娘として、最後にできる精一杯のことなのかもしれない、と思い始めていました。

それは、今日ここへ来て、父の姿を見て初めて思った、覚悟のような自分との取り決めでした。



・病室へ戻ると、お隣のご婦人はこちらを向いて、静かに微笑んでいました。そして小さな声で言いました。

「うちのひとも、今、寝たところなのよ、そちらのかたもうちのひとも、今はしあわせよ。」

外はまだ静かで穏やかな午後が続いていました。暖かくて静かな病室には、小さく壁掛け時計の音が、チクタク響いていました。

「なるようになる。心配するな。」私は父の声を聞いた気がしました。






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