歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2007年08月29日(水) なぜ歯医者の麻酔は効かないのか?

今から10数年前、僕が某病院で研修医だった頃の話です。僕は歯科口腔外科の研修医だったのですが、研修期間のうち数ヶ月の間、歯科口腔外科を離れ、麻酔科で研修を受けていました。麻酔の指導医の指導のもと、全身麻酔をかけ、手術中の術中管理の実習を受けていました。この研修は、単に手術室で患者さんに麻酔をかけるだけでなく、手術前日に患者さんを訪ね、患者さんの問診をしなければなりませんでした。
翌日手術を控えた、ある50歳代の患者さんの部屋を訪ねた時のことです。僕は患者さんに問診を行っていましたが、その患者さんはこんなことを言われたのです。

「先生、私は麻酔が効かないと思いますよ。なぜなら、今まで歯医者で治療を受けた時、麻酔が効かなくて大変だったものですから。」

この患者さん、全身麻酔をかける直前にも同じことを言われたのですが、実際のところどうだったかといいますと、点滴による麻酔導入薬を注入した途端、深い眠りに入られました。手術前の患者さんの言われていたこととは全く正反対、見事に麻酔は奏功し、全身麻酔下での手術が行われました。

この患者さんに限りませんが、“歯医者で麻酔が効かない“と言われる方が少なからずいます。中には自分は麻酔が効かない特殊体質であるということを誇りに思っているような節さえあるようなところがある人もいるくらいですが、果たして、歯医者で麻酔が効かないということは本当なのでしょうか?

結論からいいますと、麻酔は必ず効くものなのです。効くからこそ麻酔は薬として広く世界中の国々で認証され、手術に不可欠なものなのです。それでは、患者さんが“麻酔が効かない”と言うことはいったい何なのでしょう?

このことを考える場合、歯医者における麻酔を考える必要があります。
全身麻酔の場合、薬は点滴から血液に入り、全身にくまなく行き渡ります。当然のことながら、脳の中にも行き渡り、記憶がなくなって眠りに入るわけです。血液を介しているわけですから、薬はロスもなく、脳の中に作用します。
一方、歯医者で用いる麻酔は、基本的に浸透させるものです。目的とする歯の近くの歯肉に麻酔の注射をしますが、注射液は血液に入るわけではなく、歯肉の下にある骨に作用させます。この注射液が骨を浸透し、歯に作用することにより麻酔が効くわけです。ということは、注射をした注射液の全てが目的とする歯に作用するわけではなく、ロスが生じるということなのです。
例えるなら、植木鉢に水をやる際、如雨露を使用して水をやるようなものです。植木鉢には水はかかりますが、植木鉢のみならず植木鉢の外側にも如雨露の水がかかってしまうようなのが、歯医者の麻酔といったところでしょうか?わかりにくい例えかもしれませんが・・・。

話を元に戻しまして、愚考するに、患者さんが“麻酔が効かない“と訴えていることは、本当に麻酔が効かないのではなく、麻酔が効きにくいということなのだろうと思います。
僕の臨床経験において、いや他の多くの歯医者も異口同音に言うのですが、歯医者で使用する麻酔は効きにくい状態、部位というのがあるものなのです。

以前にも書いた事ですが、炎症がひどい時には麻酔は効きにくいのです。例えば、むし歯が進行し、神経(歯髄)にまで達している時、患者さんは激痛を感じ、歯医者へ飛び込んでくるものですが、この時、原因の歯の歯髄の処置を使用と麻酔の注射をしても効きにくいことが多いのです。
注射液は化学的な成分組成の面でみると、酸性です。詳しいことは省略しますが、酸性の物質に注射液が結合しているような分子構造になっているのです。通常、体の中は中性ですので、中性の体に酸性の注射液を浸透させると、酸性の物質は中性と混じりあい、緩衝します。その際、酸性物質に結合していた注射液が分離し、注射成分が目的とする組織に入り込み、麻酔が効くというメカニズムになっています。
この麻酔薬、炎症がひどい状態の組織に麻酔注射を打つとどうでしょう?炎症がひどい組織は酸性状態になっています。そこに酸性の注射液を打ち込んでも注射液の本体が分離せず、注射液の成分が目的とする組織周辺に作用しないのです。要するに炎症がひどい場合は、体の中の化学的な状態の影響により注射液が作用しにくい状況になっているわけです。

また、口の中の場合、上の歯よりも下の歯、下の歯でも前歯よりも奥歯の方が麻酔が効きにくい特性があります。その理由は歯を支えている骨の密度です。
歯というのは骨に周囲を囲まれているわけですが、その骨の密度は上顎よりも下顎の方が密度が大きいのです。
歯に麻酔を効かせたい場合、歯の近くの歯肉に麻酔の注射を打つものですが、針先から出てきた注射液はどうやって歯に作用するのでしょう?それは注射液が歯の周囲の骨にしみ込むことにより作用するのです。骨の中にしみ込みやすくするため、歯の麻酔に使用する麻酔液の濃度は他の体の部分に使用する麻酔液よりもかなり濃度が濃くなっています。
以前、耳鼻科の先生に歯科で用いる麻酔液の濃度を答えたところ、その濃度の濃さに驚かれていました。それくらい、歯科で用いる麻酔液は濃いもので、歯科で用いる麻酔液を皮膚に作用させると、濃度が濃すぎ、場合によっては皮膚が壊死してしまうこともあるくらいなのです。
それはともかく、歯に作用させる麻酔液は実際のところは、歯の周囲の骨に浸透させ、骨からしみ込むことにより歯に作用させるわけです。ということは、骨の密度が大きければ大きいほど麻酔液が浸透しにくいということになります。上顎よりも下顎の方が麻酔が効きにくいというのは、下顎の骨密度が大きいためです。しかも、同じ下顎でも前歯よりも奥歯周囲の骨の密度が大きいのです。すなわち、下顎の奥歯が麻酔が効きにくい解剖学的特徴があるということです。

麻酔薬の使用に際し、ロスが避けられないこと、症状のある歯の状態、歯を支える骨密度などを考えると、患者さんによっては“麻酔が効かない”と感じる状況は大いにありうると思います。僕の経験では、むし歯に侵され痛みがピークに達している下顎の奥歯が最も麻酔が効きにくい状況のように感じます。

先日も、下顎奥歯のむし歯を放置して激痛が生じ、夜も眠れなかったと言われる患者さんが来院しましたが、この時も麻酔が効きにくい状況で苦労をしました。結局のところ、いつもよりも多量の麻酔液を使用し、最終的には、歯髄に直接注射液を注入することで麻酔を効かせましたが、患者さんは麻酔が効くまで相当つらかったことと思います。


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