My life as a cat
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2016年03月30日(水) せりごはん

会社のカフェテリアにて。隣のテーブルでインド人一団が持ち寄った食べ物を分けあって祭りのごとく賑やかに食べているのは見慣れた光景だが、今日は一風変わった光景を目にした。ひとりが粉っぽいものを誤って床に落としてばら撒いてしまった。落とした本人はちょっとずつ粉をかき集めて拾っている。しかし仲良く一緒に食べている仲間は誰も手を貸さず、何事もなかったように食事を続ける。拾っても拾っても床は綺麗にならない。見るに見かねて、

「もし使いたかったら、掃除機はあそこにあるよ」

と教えてあげた。

同僚と″自分の身の周りは自分で掃除する″というのはいかにも日本的な考え方だという話になった。小学校では″掃除の時間″があった。会社でも清掃業者がやるのは大まかなスペースで、個人のデスクなどは日々自分で掃除をする。ところが一歩日本を出るとこういう習慣を持たない人は多い。なぜ勉学のため学校に通う生徒が掃除をしなければならないのか、なぜエンジニアとして勤務する会社員がデスクを磨かなければならないのか、という考えのようだ。新しく出来たインドのオフィスの人々のデスク周辺が汚いので、わたしの上司が注意したところ、それは自分の仕事ではないからと返されたそうだ。使用人が家にいるような家庭で育った人が多く、その癖が抜けきらず、放っておけば誰かがやってくれると思って、そのうち身の回りが汚くなってくる。

欧米の映画やドラマでは、知的で良識のあるはずの役まわりの人々が道端にポイッ、とタバコの吸い殻を投げ捨て、足で踏み潰して拾わずに立ち去るシーンというのがざらにある。ぎょっとしてしまうが、あまりにも悪びれず描かれているところを見ると、彼らにとってタバコの吸い殻はゴミというよりも埃や塵くらいの感覚でしかないのではないかと思った。そしてそれを拾うのは自分ではなくそのうちやってくるであろう清掃車だという意識。欧米と欧米の植民地だった歴史のある国々では階級意識のようなものがいまでもまだ根を深く張っていて、それがひょんなところで表面化されてきているのではないかと感じた。

夕飯はせりごはん。頂き物の筍もたっぷり入れて、稲荷にしてみた。せりごはんのレシピは母のものだ。せりとにんじんやら椎茸なんかを炒めてかつおぶしと醤油と砂糖で味付けしたのを炊いたごはんと混ぜ込むもの。ずぼらな母が毎年春になると適当に作るせりごはんは家族みんなの大好物で、これが食卓に上ると会話もなく黙々と2杯も3杯も食べた。せりごはんは春の恒例行事だった。


Michelina |MAIL