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空の美しさにかなうアートなんてあるのだろうか
私は美人で、頭も悪くないし、体もいいし、幼い時から、廻りの人に気をつかって、随分尽す性だし、今は、その延長で世界のために、と自分の出来るだけはしているのだから、自分では何もコンプレックスを感じていない。
それがこれだけ悪口をいわれてきた、というのはどういうことなのだろう。・・・ 中略・・・
ヨーコのアートなぞというけれど、それは嵐の中を歩いた足跡みたいなもので、ふりかえってみる気はしない。その時、そういう歩きかたをしなくてはならなかった、ということなのだろう。
何か、あなたがそこから得ることがあれば、ありがたい、と思うけれど、得ることがなければ、どんなご立派なアートでも、仕様がないんじゃないか、と思う。
リンゴが気から落ちるだけでインスピレーションを得る人間と取っ組んでいるんだから。そういう次元ではアートなんて無駄な努力なのかもしれない。
空の美しさにかなうアートなんてあるのだろうか。私はただ私でありたい、と思って暮らしてきただけた。その私であるということが、そんなに怒りをうけるのだったら、人間社会はこわい、と思う。
自分では、自分のいい子ぶりにウンザリしているくらいで、片親をなくしたショーンのために、と思って、万事低姿勢で自重しているわけだが、本当は世界に向かって、バカヤローと叫びたいのが本音だ。
(1984年10月 ニューヨークにて オノ・ヨーコ"ただの私"より)
21世紀の日本には目に見える露骨な男女差別などなくって、わたしは女性であることで不当な扱いを受けているなどと感じたこともないから、そういうことには無関心だけれど、それは過去に闘ってくれた人々のおかげなのだとありがたく思う。オノ・ヨーコは嵐の中で勇敢に闘ったけれど、母親になると今度は子供を守るために自重の姿勢を取る。わたしにもきっと母性があるので、自分の子孫を守りたいと自然に思う。だから自分の子孫が生き易い社会へと導かなければならない。自分に忠実に歩くことは時々簡単じゃなくって、向かい風に煽られて吹き飛ばされそうになってしまうとき、この本でオノ・ヨーコが自分を生きようとする女性達を「姉妹」と表現したように、わたしは彼女の姉妹なのだと思ってみると少し力が沸いてくる。