この世のような夢

2007年11月24日(土)




それは、恣(ほしいまま)に描く・・という公案だ





今週で二週間目となる我が師・画家S先生の個展で、一昨日はライブペインティングのイベントがあった。師は今年で御年90歳になられる(90でライブとはね・・)。僧侶でもある。






絵は、恬淡と描かれていてじつに幽邃(ゆうすい)なものだ。しかも、稚気にあふれていて余りある。やすらかにもなる。そして・・絵という自由、を感じる。


どしたら・・・そのように、画材の水彩絵具(グワッシュ)という泥濘(でいねい)から、'透明なるもの'、もしくは、(逆を言うようだが)'幽冥なる世界' ── が現れいづるのだろうかといつも思う。


師はラクガキという課題をいつも出される。それは、日常的な発想から 'タマシイ' を開放する手段としての、ラクガキ、ということらしい。だから、それには、上手下手もないと。曰く── まず床に拡げた(畳一畳分くらいの)大きな紙面。それはあたかも宇宙のような空白の中で、何の意味もなく、ただ一点をおくところからはじまる。その点の軌跡が線となり、やがて紆余曲折の中で、腹中のセンサーとの対話がはじまる。そのセンサーとは、人間の核のようなもので、それを実は絶妙な知覚能力で取捨選択をかさねて、より完璧な形に構成しようとする。それがやがて、満足する造形となれば、それはまさに仏心の造形、天与の作となる(寄稿「一心観仏」より)、というのだ。そこに、非・作為という神(仏?)が降りてくる。だが、実際にやってみると、これがなかなかむずかしい。大人の場合はどうしてもそこに、考え、が入ってしまうからだ。しかし・・・師の描く線や画の一手先は、当然のこと乍らと言うべきか、読めない(わしにもわからん、と言われる)。


今日は、ひとりで、じっくりとそうした絵の秘密を感じるために、改めてもう一度会場へ行ってみた。















そしたら、会場であるこの芸大では、こんな講演会もやっていたので、ついでに聞いた。ここにはこのJTさん↓のクリエイチブライティングの講座があるのだ。






ジャッキー曰く(若者は 'じゃくちょう' さんをそう呼ぶらしい):

小説は、──「1に才能。2に才能。3に才能。4に才能よ!」と、何と4にまで、才能、と!

「才能がなけりゃ努力してもしょうがないのよ・・」とも。


そうだろうな。センス・・・だ。


ジャッキーは「好きこそ才能なのよ・・」とも言うのだが。



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