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2004年10月18日(月)
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私は誰と比べて切り捨てられるのかなぁ
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きっちりと排除して、綺麗なものだけで生きる。 役に立つもの、優れたもの、見目麗しいものだけに生き残る価値がおく。 これを人間に適用したら、あのちょびひげのおじさんになるのだろうか。
何を言いたいかっていうと、部屋の整理を私はたまに"粛清"っていうけど、ほんとそうだなぁと思うわけだよ。 でも、そんなことを言えば入浴だってそうじゃないか。
垢は自分の体から出たものと、自分の暮らす大気の浮遊物が混ざったもので、それを汚いものとするのは、これまた一種の近親憎悪。 もっとわかりやすく。 髪の毛。 しかるべき場所にいる時は、ことにきちんと持ち主の思い通りに落ち着いているときは可愛い。 いったん抜けるときたならしいゴミ。部屋に落ちてる髪の毛、排水溝に溜まる髪の毛。不潔。自分の細胞なのに。
わけへだてること、取捨選択すること、これは全てのものを愛することと相反しないのか。 部屋を掃除するように、地球を綺麗にしようという人が出てきた時、なんていって反論すれば良いのか、わからなくなる。
ずっと使って愛着があるものには魂が宿るような気がして、私は身も知らない遠い国の誰かより、お気に入りのタオルケットの方が大切かもしれない。
火の中で、海上で、誰が誰を選んで、私は誰と比べて切り捨てられるのかなぁって思う。
でも、何時かスーツケースを別便に居場所がベットしかないような老人ホームに入る時が来るかも知れず、その時に色々なものを涙ながらに整理するのは哀しいから、極力モノは持たないようにしようって、ずっと思ってきた。 住み慣れた場所を離れて質素な(安い)老人ホームに入るだけで哀しいのに、それと同時に持ち物まで整理するのは、そうなったら打ちひしがれてしまうよ、ってそんなことを10代の頃から思ってて。
だから、身軽に暮らしたいと。
迷うことと考えることばかり。 何にも持ってはいけない、お骨になる時には。それだけはわかる。
思い出はどーなんだろう。 思い出してもらうことだけが全てなんだろうか。あーそれ、望み薄かも。 そんなことを考えると、骨格に隙間風がさわってく気がするぜ。
alain
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