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その夜恋人からの電話はかかってこなかったようだ。 あの部屋の様子は今でも鮮明に思い出すことができる。大通り沿いの、茶色い雑居ビルのようなそのマンションは父親の会社が管理していた物件で、当時休学中の大学院生だった私は家にいるのがいやでいやで仕方なくて、父親に無理をいって格安でその部屋を貸してもらった。隣の部屋はどういう仕組みになっているのか分からないが何らかの風俗営業がおこなわれているようなところで、一度何かの請求書が間違って私のポストに届いていて、宛名は「極楽天国」だった。その部屋は5階にあったけれど向かいのマンションはまだそれより高くて、ベランダに出ても灰色の無機質な壁が見えるだけだった。だが天井が高く、10畳ほどの広さはあったのだろうか、ひとりでいるときはいやにがらんとした部屋だった。 そこで私は、待って、待って、待ち続けて、静かに狂い続けていた。 今、毎日、あの頃と同じ場所へ働きに出て、昼休みにはあの頃と同じ場所へ珈琲だけを飲みに行っている。いくつかのカフェはリニューアルしていたり、名前が変わっていたり、いくつかの店がなくなって、いくつかの新しい店ができていたりするけれど、職場の窓から見える角の丸いビルの形は何一つ変わっていない。 今も彼はあのビルのあのフロアにいて、戯れにどこぞの広告代理店を名乗って電話をかけたとしたら、当時私がしていたように、取次ぎ嬢が内線をまわしてくれたり、17時帰社予定です、と言ってくれたりするのだろう。 そんな妄想をもてあそびながら伝票を数えていると、なんだか涙が出てきそうになるから、ときおり意味もなくふふふ、と笑ってみるのだけれど、それがどうも気持ち悪いらしく、前の席の可愛い女性がそのたびにわざと大げさに「どうしました?」とたずねてくれるので、どうにか泣かないで済んでいる。人の存在がありがたいと思うことはまれなので、こういう気持ちは大切にするべきだ。 あの頃と違って、もう待つ必要はないし、狂う必要もどこにもありはしないのだから。 |