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ひみつにっき
渡海奈穂
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2010年12月10日(金)
 『ムックとうさぎさん』 たまには恋でも


 椋本は目を疑った。外回りから帰社し、いつもの習慣で自分のオフィスではなく開発課のブースに足を踏み入れた時、そこに、うさぎさんがいたのだ。
 うさぎさんは仏頂面でパソコンモニタに向かっていた。
 パーティションの向こうから現れた椋本に気づくと、うさぎさんは眼鏡をかけた顔をますます顰めて見せた。
「お……岡崎君……」
「罰ゲームなんですよ」
 ふいと、椋本からすぐに視線を逸らし、ぶっきらぼうな声でうさぎさん――うさぎの耳がついたヘアバンドを頭に乗せた岡崎が、言った。
「何年か前の忘年会で使ったとかいうこれ。何でか一日つけることになって」
「そ、そうなんだ」
 と呟くだけで精一杯、椋本は思わず自分の口許を片手で押さえた。思いっきり弛んだ口許を岡崎以外の開発課社員に見せてはならないという理性半分、あまりに急激な興奮により鼻血が出ていたらどうしようという怖れ半分。
 幸い鼻血は出ていなかった。が、頭に血が昇りすぎて、椋本は気を失いそうだった。
「……」
 横目でそんな椋本を見ていた岡崎が、はあ、と小さく溜息を漏らして立ち上がる。
「椋本さん、休憩行きましょう」
 社内で他に並ぶ者のいないイケメンとして有名な恋人が、後輩のウサミミに精神的な昂りを覚えた挙句卒倒する……などという醜態を晒す前にと、岡崎なりの思い遣り誘ってくれたらしい。椋本はこくこくと頷き、岡崎と一緒に開発課を出た。
 ラウンジに向かうために廊下を歩くさなか、椋本が揺れるうさみみについちらちらと視線を遣れば、岡崎の呆れたような溜息が再び聞こえる。
「あの、あんまり見ないでくれませんか。――人前で」
 そうか、人前でなければいいのだと、椋本は閃いた。
「岡崎君、こっち」
「え?」
 椋本は迷わず岡崎の腕を掴み、目についた男子トイレに、引っ張っていった。
 岡崎は多少困惑した様子だったが、渋々と椋本についてトイレ、その個室に入った。
「……二人でこんなとこ入るの、おかしいですよ」
 拗ねた顔で、目を逸らし、唇を尖らせながら言う岡崎が、椋本にとっては殺人的に可愛い。
「いや……だって、もう……」
「写メは駄目です」
 椋本がスーツのポケットに手を入れようとする動きに気づいて、岡崎がそう釘を刺した。
 残念だが、筆舌に尽くしがたく未練だが、恋人を嫌な目に遭わせることは避けたいので、椋本はウサミミ岡崎を待ち受けにすることは諦める。
「じゃあ……触っていい?」
「……」
 小声で訊ねた椋本に、目を逸らしたまま、岡崎が首を横に振った。微かに後退さっている。
「それも、駄目です」
「どうして? 作りものだよな、これ」
 それまで拒まれるのには納得がいかず、椋本はそっとウサミミに手を伸ばした。岡崎が首を竦める。
「ちょ、駄目って……、あっ」
 白いウサミミのふかふかの毛に触れた刹那、岡崎が小さく震え、どこか甘い声を漏らしたことに、椋本は驚いた。反射的に手を離してしまう。
「えっ?」
「……駄目って……言ったじゃないですか……」
 見ると、岡崎の黒縁眼鏡の向こうにある双眸に、じんわりと涙が浮かんでいた。
 その目許がほのかに赤い。椋本は狼狽する。
「だ、だって」
「こんな……会社で……」
「…………」
 恐る恐る、椋本はもう一度ウサミミへと触れてみた。
「や……あ……っ」
 再び岡崎が身を竦め、ウサミミがへたりと折れ曲がった。
(……あったかい……? そんな、馬鹿な……)
 ウサミミは、まるで生き物のように動き、そして熱を持っている。
 岡崎はぽろぽろと涙を零し、椋本が愛してやまない目の下のほくろを濡らしている。
「岡崎君……うさぎさんだったんだ……」
 その様子に見入り、うっとりと、椋本は呟く。
 震えるウサミミの毛並みを掌で撫でるたび、岡崎の顔が上気し、足許が震えるのが椋本にもわかった。
 こくりと、岡崎が小さく頷いた。
「……会社には、内緒にしてくださいね。俺がうさぎだってわかったら、ここに……椋本さんと同じところに、いられなくなるから……」
 悲しそうに言う恋人に、椋本は、大きく、力強く頷きを返した。
「わかった、大丈夫。岡崎君の秘密は俺が絶対に守り抜くから」
 椋本の返答を聞いて、岡崎がほっとしたように、小さく笑う。
「その代わり――」
「……」
 卑怯にも持ち出した椋本の交換条件を、言わずとも岡崎は察し、許して、濡れた目を伏せながらまた頷いた。
 椋本は震えるうさぎの耳を片手で支え、そしてその毛並みに唇を、

     ◇◇◇

「休憩所で寝るな、馬鹿」
 バシッと後頭部に痛みを感じて、椋本は飛び起きた。
「痛って……、え、あれ?」
「せめて仮眠室行けよ。ったく春だからって弛みすぎだ」
 顔を上げて振り返ると、背後に、呆れ顔の深埜木が立っていた。
「あ、あれ、うさぎさんは」
「はあ? 寝ぼけてんのか?」
 深埜木は呆れ顔でにべもなく言い、もう一度椋本の頭を叩くと、その場を去っていった。
 寝ていたつもりはないが、どうやら、会社のラウンジの椅子で、うとうととまどろみ――白昼夢を見ていたらしい。
「ゆっ……夢ビデオ……何で夢ビデオがまだ開発されていないんだこの世界は……!?」
 残された椋本は、悲しみに沈んで小さく呟き、ひとり首を振った。
 とある春の日の、どうでもいい午後のことだった。
―謎―