初日 最新 目次 戻る


ひみつにっき
渡海奈穂
HOME

2015年05月22日(金)
 『厄介と可愛いげ』厄介と可愛いげその後


 たまには外でデートをしよう、と言い出したのは瀬ヶ崎の方だった。
 そういえば、出会って以来、会うのはもっぱら瀬ヶ崎の自宅マンションだったし、同居――同棲、と言うべきか――を始めてからは、わざわざ出かけなくても顔が見られるから、待ち合わせをしたことがない。
 たまにはいいだろ、と笑って言われた時はあまりぴんとこなかったが、こうして普段行かない駅の辺りで相手を待つ時間が、たしかにそわそわ落ち着かず、新鮮で、「いいな」と加辺は思った。
 日曜、大きなショッピングモールのある駅前は、雑然と混み合っている。加辺は昼過ぎまで弁当屋でアルバイトをして、数駅離れたこの場所まで電車で移動すると、駅前広場に置かれたベンチに座って瀬ヶ崎からが来るのを待った。
 待ち合わせは午後三時、瀬ヶ崎は昼には仕事が終わる予定だと言っていたのが、ついさっき『少し遅れる、悪い』とメールで連絡がきた。店に入って待っているようにも書いてあったが、見渡したところ目につくのはコーヒー一杯で五百円はするカフェばかりで、勿体ないしと、加辺はベンチで本を読んで時間を潰した。
 瀬ヶ崎が姿を見せたのは三時半を回ろうとする頃だった。
「悪い、温史、待たせた!」
 電車を降りてからここまで走ってきたのか、スーツ姿の瀬ヶ崎の髪が少し乱れている。
 とはいえ息が上がったりはしておらず、さすが現職警官だなあ、などということに感心しながら、加辺はベンチから立ち上がると瀬ヶ崎の髪をさっと手で直してやった。
「待つのも楽しかったですよ。デートの醍醐味ってやつですかね」
 前半を笑って、後半を少し声を落として囁いたら、瀬ヶ崎の目許が少しだけ照れたようになる。ゆうべ、『デートをしよう』などと臆面もなく言い出すものだから、ここで照れられるとは思ってなくて、瀬ヶ崎に倣い平然と言ってみたつもりだった加辺までつられて恥ずかしくなってしまった。
「えっと、劇場、あっちです」
 今日は加辺が大学の同級生が出演するという芝居を見に行く予定だった。『余りすぎてるからタダでもいい、客席を埋めるためにもらってくれ』と押しつけられたチケットが二枚あるのだが、今日で最終日なのに誘う人もおらず、一人でも行かないと悪いだろうか……と世間話程度に口にしたら、瀬ヶ崎が『明日は午後から非番だから一緒に行こう』と言ってくれたのだ。
「芝居見るのなんて、中学の文化祭以来だなあ」
 瀬ヶ崎と並んで小さな地下劇場に向かって歩き出し、鞄から取り出したチケットを確認しながら加辺は呟いた。
「映画なんかも、全然行ったことなくて。俺が行っていいものなんだか、ちょっと不安です」
 天涯孤独の加辺は何しろ赤貧で、娯楽に金を使うことがほとんどなかった。複数掛け持ちしていたアルバイト先の知り合いから、今回みたいにタダ券なりをもらうことがあるにはあったが、正直、そんな時間があれば少しでもバイトをしていたかったので、使ったためしがない。
「俺は譲(ゆずる)が小学校低学年の頃以来だな、あいつ、ヒーローものとかが好きだったから」
 瀬ヶ崎も早くに両親を亡くしたというが、親族に面倒をみてもらっていたので、加辺ほどつましい生活ではなかったようだ。弟の譲を映画や遊びに連れていく余裕くらいはあったのだろう。
「譲が、正義の味方の出てくる映画を……」
「うんまあ、ヒーローと悪役とどっちに感情移入してたかは、今じゃわからないけどな……」
 妙にしんみりした雰囲気になってしまった。譲は少し前に『もう瀬ヶ崎と加辺の住む家に行かない』と宣言して以来、本当にしばらく姿を見せていない。大学もまた休んでいて、加辺は何だか少し心配だったし、口に出しては言わないが、瀬ヶ崎も同じだと思う。
(あれだけいろいろやられたのに、こうやって気に懸かるところが、譲は凄い)
 心配ではあったが、瀬ヶ崎と心置きなく一緒にいられる時間というものが、加辺には大事だ。瀬ヶ崎と暮らし始めて以来、何だかんだと譲の横槍が入っていたから、それの収まった今が、譲には悪いとは思うものの、正直幸せだった。
「そうだ、何食べますか? 劇場の周りに結構店あるみたいですけど」
 小さな劇場までは、駅から少し距離がある。途中で食事をしようと言って、早めに待ち合わせたのは正解だった。劇場の近くで軽く食べる時間くらいはありそうだ。
「どうせなら、芝居が終わったあとで少しちゃんとしたものを食べよう。温史、今日はもうバイトもないんだろう?」
 どうといったこともない会話を交わしながら瀬ヶ崎と並んで歩くのも、加辺には新鮮だ。そういえば出会ってこの半年くらい、本当に瀬ヶ崎とは彼の部屋ばかりで会っていたのだと、改めて思う。
(例外は、最初に脇田さんちで出会った時と、准さんが俺の大学に押しかけてきた時と、そのあと喫茶店で勘違いを謝られた時と、外で脇田さんに絡まれた時くらいか)
 ――どれもろくな記憶じゃなかった。
「ん? どうした、温史」
 一人で苦笑いする加辺に気づいて、瀬ヶ崎が不思議そうに訊ねてくる。
「いや、デートとか、生まれて始めてだなと」
 思ったままを言えば瀬ヶ崎がへこみそうな気がしたので、加辺は笑いながらそう答えた。
「そうか」
 瀬ヶ崎が、妙に嬉しそうな様子になる。この人は本当に可愛いなあ、と思いながら、加辺は頷いた。
「はい。一緒に暮らしてて、毎日顔合わせてるのに、外で会うと何だか気分が違いますね」
「ちょっと、俺が焦りすぎたかな。温史と暮らし始めるまで、あっという間すぎたかもしれない」
 出会ってから同棲を始めるまで、一ヵ月くらいしかなかった。たしかに加辺も、『展開が早い』とちょっと呆れるというか、感心した心地だった覚えはあるが。
「でも一緒に暮らしてるからって、すぐに熟年夫婦みたいな関係になる必要もないしな。温史さえよければ、時間がある時は、こうやって外で会おう」
「――はい、たまには」
 家賃や生活費を瀬ヶ崎と折半しているおかげで、加辺の生活は彼と出会う前に較べたらはるかに安定している。常に金銭面で不安だったから、外食やレジャーなんて贅沢でしかなかったが、今はちょっとくらいはいいかという気持ちだ。
「でも食事、できれば安いところでお願いできますか。しみったれたこと言って、申し訳ないですけど」
「奢るよ。……って言ったところで、温史には断られるんだろうなあ」
 瀬ヶ崎はもう加辺の性格を把握している。自分の方が年上で、社会人だからといって、理由もなく奢られることに加辺が納得するはずがないと。何しろ不遇な人生を過ごしてきた加辺の信条は『ただより高いものはない』だ。
「すみません。過剰だとはわかってるんだけど、防衛本能が骨身に染みて離れなくて」
「誕生日とか、何か理由がある時は、脅してでも奢るぞ?」
 真面目な声で瀬ヶ崎が言うが、もちろん冗談だと加辺にもわかる。
 脅してでもというのは冗談でも、奢るぞ、というのが本気だということも。
「俺も、准さんの誕生日には奢りますね。奢るっていうか、いつもより豪華な料理になると思うけど」
 加辺の返答に瀬ヶ崎がまた嬉しそうに笑い、さり気ない仕種で、加辺の頭の後ろをぽんぽんと優しく二度叩いた。
「期待してる」
 ささやかなスキンシップだったが、家で二人きりの時にするキスくらい気持ちよかったし、胸がそわそわする。
 人目があるから普通の恋人同士のように手を繋いだりはできなくても、それなりにいちゃつくことはできるんだなと、加辺には発見だ。
(本当に、悪くないな、デートって)
 噛み締めながら歩いていると、ふと瀬ヶ崎の視線を感じて、加辺は傍らを歩く相手の顔を見上げた。
「准さん?」
「いや……今日の温史はいつにも増して可愛いな、と思って」
 ――などという台詞を、大人の余裕でさらりと言ってくれるのなら、加辺だって「そうですか、ありがとうございます」くらいで簡単に流せたのに。
 これまでそれなりに女性だの男性だのと付き合ってきたはずの瀬ヶ崎が、やはり妙な具合に照れながら、しかもしみじみと言うもので、加辺だってどうしても釣られてしまわずにはいられない。
「そ……そういうの、外で言うものじゃ、ないと思いますよ」
 変にしどろもどろになってしまった。
「す、すまない。でも何だかいつもより、こう、ふわふわしてるというか、やたら明るく見えて」
「……わかりますか?」
 さっきから足許が柔らかいような錯覚がして、自分がうまく歩けているのか気になるくらいだった。見ていてわかるくらい浮かれているのかと恥じ入って加辺が訊ねたら、瀬ヶ崎が少しびっくりした顔になった。
「いや、俺が。地に足が着かない感じというか、視界が明るくて驚くというか――こんな気持ち久しぶりだよ。何だか中高生の頃に戻ったみたいで恥ずかしい。けど、デートって、いいもんだな」
 浮かれていることを瀬ヶ崎に指摘されたのかと恥じ入っていたのに、そうじゃなかったとわかったって、加辺の恥ずかしさは増すばかりだ。
(抱きついてしまいたい)
 手を繋ぐの繋がないのという話ではなくなってしまった。加辺は今すぐにでも瀬ヶ崎の胴に抱きついて、どこでもいいからひとけのないところに移動して、気が済むまで瀬ヶ崎といちゃつきたい衝動に駆られてしまう。
「――温史、この芝居ってやっぱり、観ないとまずいよな」
 そう訊ねた瀬ヶ崎の意図がわかりすぎるくらいわかって、加辺は照れまくりながらも笑ってしまった。
「できれば。全然人が入らないって言ってるから、俺が行かなかったら券くれた人にもわかっちゃうと思うし」
「そうだな、そうだよな。せっかく頑張って稽古して、上演してるんだ。券をもらったのに、行かないと失礼だよな」
 外で会うから気分が盛り上がるのに、外だから何もできないというのは、なかなかのジレンマだ。
 こんなジレンマに陥ることがあると知ったのも、始めての経験だった。
「芝居、終わったら……すぐ帰りますか?」
 加辺は少しだけ瀬ヶ崎の方に身を寄せて、こっそりと呟く。
 瀬ヶ崎も、さり気なく加辺の手に触れるような仕種をして、照れた目許で頷いた。
「たまには外でゆっくり食事でもと思ったんだが……駄目だな。多分、ゆっくりなんてできない」
「今日のところは、早めに切り上げで。また、別の日にも待ち合わせましょう」
 せっかくのデートなのに、数時間で終えてしまうのは、少し惜しい気もするが。
 しかしこの先何度でも瀬ヶ崎と出かけられるのだ。何の問題もない。
「そうだな。俺に堪え性がついたら、今度は朝から晩まで温史をあっちこっち連れ回して、楽しもう」
「はい」
 観劇がだしになってしまったようで、チケットをくれた同級生には少々申し訳ない気分もするが、加辺はひたすら照れ臭い気分を味わいながら、芝居が終わるまでは生まれて初めてのデートを満喫することにした。