月に舞う桜

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2020年05月11日(月) 反出生寄り

私は障害当事者で、将来のために安楽死制度があったらいいなと思っていて、おまけに、単なるチャイルドフリーというよりは反出生寄りだ。
障害者団体や障害当事者の学者や障害学の研究者には賛同できる思想や発言もたくさんある一方、そういう人たちはたいてい反安楽死で生賛美なのが馴染めない。
例えば友人に子どもが生まれたら「子どもを生むなんて、ひどいやつだな」とは思わないし、普通に「おめでとう♪」と言う。反出生主義者を名乗るほどの強い思想も持っていない(名乗れるほど、まだ反出生主義について学んでいない)。
でも、一般論として、この世の中に子どもを送り出して生きることを強いるのは、手放しで賛美されることとは思えない。だから、ガチガチの反出生主義ではないけど反出生寄りとの認識。
結婚している男女が子どもを作ること、産むことを無条件に良いことと考える人たちより、反出生主義者の言うことの方が共感できる。そして、子どもを生んだ人(男女問わず)が言う「子どもをほしいと思った理由、子どもを生んだ理由」よりも、子どもを生める可能性大だけど子どもを生まないことを積極的に選択した人が言う「子どもを生まない理由」のほうがはるかに共感できることが多い。

ちなみに、旧優生保護法下での障害者に対する強制不妊手術のように、国家が恣意的に特定の属性から生殖の権利を剥奪することには、昔も今も反対だ。これは、私の中では、反出生寄りな考えと矛盾せず共存できる。そもそも、生殖の権利以前に、自分の身体を他者(国家を含む)に勝手にどうこうされない権利の問題だし。

子育てしやすい環境(制度や人々の意識)は整えたほうがいい。
でもそれは、第一義的には、親のためじゃなく生まれた子どもが生きやすくあるため。
生まれてしまった以上は、誰でも幸せになる権利があるし、どんな環境に生まれたとしてもなるべく生きづらくなく、生きづらさが解消される社会を作るべき。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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