月に舞う桜
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| 2006年11月09日(木) |
結局言いたいのは、ありがとうって、ただそれだけ。 |
心身が疲労したとき、特に心的エネルギーががくんと減少してしまったとき、私はとにかく独りになりたい。人と関わるのが億劫で、自分の世界に閉じ篭ってじっとしていたくなる。 独りの時間は大切だ。ほかの全てが完璧でも、独りの時間を確保できない生活環境には耐えられないと思う。誰かと接することは、相手がどんなに好きな人であっても多少なりともエネルギーの要ることだ。そのエネルギーを、私は独りでいられる時間に蓄える。 友達と遊ぶのも楽しいけど独りでぶらぶら買い物するのも大好きなのは、私が一人っ子だからじゃないかと言われたことがある。独りでいることに慣れているのだろう、と。 自分で分析してみるに、慣れているのではなくて、むしろ渇望だ。大学入学を機に電動車椅子というものを手に入れるまで、私は誰かがいなければ外出や学校での教室移動ができなかった。物理的に(身体的に)不可能であるということに加え、どうしたって目立ってしまうので、そういう意味でも勝手にふらりとどこかへ行くことは難しかった。例えば周りが見ていない隙にその場からちょっと抜け出して、また気づかれないように戻って来るとか、先生の目を盗んで委員会をサボって帰ってしまうとか。 今の私は自分にとって自由の象徴であり最大の武器であり味方である「紺ちゃん」を手に入れたので、他人事みたいに忘れかけてしまった節があるけれど、誰かがいないと動けなかったりいつも誰かに見られていたりするのは、他人が想像するよりもずっとストレスの強い状態だ(ったろうと思う)。 だから私は、独りの時間を確保できる環境をずっと望んでいた。それで今、例えば横浜駅のような、人が大勢いるけれど私を知っている人はおらず、「あ、車椅子の人が通っているな」くらいは思われるかもしれないけれど特別関心を持たれずに、まるで私なんかいてもいなくてもどうでもいいみたいな雑踏の中で「その他大勢の一人」でいられる時間が心地よくてたまらない。
でも、当たり前だけど、人と関わることは大切だし、大切にしていきたいと思う。他人がいなければ生きていけない。それは、自分が物理的な手助けを必要とする体だからではなくて、もっと精神的な意味で。 私はときどき、「普通の感覚」が分からなくなる。たぶん「普通」なんてものはどこにもないし、人の感じ方や価値観はそれぞれだから、分からなくなっても自分の芯を持っていれば別にいいじゃんと思わないこともない。でも、自分を歪めないためには「普通の感覚」を手繰り寄せることも重要なのだ。 私は嫌だと思うけど他人は気にしないこともあるし、私が平気なことでも誰かは嫌でたまらないと思っているかもしれない。お互いに配慮すれば、感じ方なんて人それぞれで構わない。 だけど、問題なのは、本当は嫌なのに嫌じゃないと思い込むことがあるということ。しかも、私の場合は意識的にではなくて、それはもう見事に本心から「全然OK(←日本語おかしい)」と思ってしまうことがある。耳を澄ませて突き詰めれば、やっぱり嫌かもしれないのに。 それで、「別に平気だよ?」という顔をしているところに「それって、嫌じゃない?」と言われたりして、はたと気がつくのだ。あ、これって嫌だと思ってもいいんだ、と。普通の感覚ってそうなんだ! と目から鱗。 嫌だと思ってもいいことなんだ、という気づきがあること自体、自分を歪めていた証拠だ。自分を歪めていなければ、「私は別に平気だけど、この人は嫌なんだな」と違いを認識するだけだから。不快を無意識的に無視して平気なことを増やすのは、スムーズに生きていくための手段だろう。だけど、それが積み重なるとどこかで自分が破綻する。 こういうとき、私は人と関わることの大切さを実感する。普通の感覚に気づかせ、取り戻させてくれる人がいるということの大切さと有難さ。だから、人と関わることがどんなに面倒でも、やっぱり人と関わらなければ生きていけない。
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