月に舞う桜
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| 2006年08月05日(土) |
年を重ねることの、何と素敵な |
大学時代の友達と丸ビルでフレンチディナー。「丸ビルでフレンチ」という響きだけで、ワインを飲む前からすでにちょっぴり酔ってしまう私なのであった。何という田舎者だろうか……。 電車の中ではせっかく持ってきた文庫本も読む気にならず、車窓から見える景色をぼーっと眺めていた。そのうち、ずいぶん昔の夏を思い出して物思いに耽り、危うく乗り換えの駅をやり過ごすところだった。
待ち合わせ時間ぴったりに現れた友達は、ぐっと綺麗になっていた。化粧が変わったとか特別派手に着飾っているとかではなく(でも、ちゃんとお洒落が行き届いている。光沢のあるキャミソールとか、お出かけ用の巻き髪とか)、たぶん年齢に相応しく自然に身につけた大人の女性の美しさなのだろうと思う。 最近、久しぶりに会う友達は皆、記憶の中の彼女たちよりも一段階綺麗になっているのだ。それを目の当たりにするたび、「私たちはもう高校生や大学生じゃないんだな」と今さらながら実感し、そんなに変化しているとは思えない自分に少しばかり焦りを感じてみたりもする。でも、美しくきちんと年を重ねている友人たちを誇りに思う気持ちは動かしようがない。
予約しておいたレストランは35階にあり、大きな窓からは東京駅周辺が一望できる。もちろん、緑などは一切ない。見えるのは、ビル、ビル、ビル。それでも、少しずつ暮れていって次第に灯りが増えていく東京を見下ろすのは、悪い感じじゃない。 正直なところ、テーブルクロスのあるレストランは久しぶりだった(最近の私がいかに出かけていないかだ分かる……)。その上、今日のレストランはメニューを丁寧に説明してくれるし、椅子も引いてくれるのだ!(私は車椅子なので関係ないが、友達がちょっと立ち上がったり席を外して戻ってくるたびに、さりげなくスタッフがやって来て椅子を引いていた。それも、こちらに気を使わせないよう、絶妙のタイミングで) そんなもてなしに慣れていない私は、いちいち心の中で感動していた。繰り返すが、何という田舎者だろうか……。
メニューを見ただけでは、煮ているのか焼いているのか、どんな味のソースなのか、まるで判らない料理たち。それから、まず値段に目が行ってしまう分厚いワインリスト。 結局、スタッフの丁寧な説明も半分くらいしか理解できなかったので(申し訳ない!)、料理は素材で選んだ。オードブルが魚だったらメインは肉料理で、できるだけ野菜がたくさんある方がいい、豚よりは鶏の気分だな……などというふうに。ワインは「白で、辛口よりは甘口、尚且つさっぱりしたもの」をキーワードに、スタッフに絞り込んでもらった。 こうして出てきた料理やワインは、どれも私たちを満足させるものだった。新鮮なスズキ、ぱりっとした野菜、フォアグラをはさんだ鶏肉、少し酸味のあるソース、口当たりの良いワイン、それからデザートのマンゴー。「月に一度は贅沢をして、いいものを食べなさい」という誰かの言葉を思い出した。「自分で働いたお金で」というところがたぶんポイントなのだ。奢ってもらうのも、もちろん素敵なことではあるけれど。 空がすっかり暗くなって店内の照明も押さえ気味になった頃、窓の外の遠くの方で花火が上がった。スタッフが「今日は江戸川の花火大会なんですよ」と教えてくれた。私たちのテーブルは窓側の特等席。花火を見られるなんてちっとも思っていなかった私たちは、そのサプライズに大喜びして、ずっと窓の外を眺めていた。
彼女と久しぶりに会うことが決まったとき、話したいことが山のように浮かんでいた。けれども、実際に会った瞬間、話したかったはずのほとんどは頭の中から消えていた。最低限の近況報告(仕事にはだいぶ慣れたこと、相変わらず恋人はいないこと)をしたあとは、ただその場その場で浮かんだことを話していった。そうして、ふと、本当に楽しい時間というのはこんなものなのかもしれないと思った。用意してあった話題なんて、どうでもいいのだ。こういうときに大切なのは、何を話すかではなくて、自分が本当に楽しんでいるかどうかなのだ。 不思議だったのは、彼女と会うのは一年ぶりくらい(!)なのに、ほぼ毎日会っていた大学時代よりも精神的に近くなっている感じがしたことだ。あの頃からもちろん仲は良かったのだけれど、今はもっとお互いに構えが取れているように思えた。
食事のあと、閉店間際の雑貨屋や輸入食材のお店を見て回った。 私たちは江戸川の花火に触発されて「花火やりたい!」と言い、雑貨屋に置いてあったシャボン玉セットを見て「シャボン玉もやりたい!」と言っていた。花火やシャボン玉などという子ども染みた遊びをしたがるのは、逆にそれだけ大人になったということでもあるのだろう。中途半端に子どもだった学生時代は、そんなものには惹かれなかった(特にシャボン玉には)。 輸入食材の店には、見たことのないミネラルウォーターや英語が書かれた缶詰や瓶詰めがたくさん並んでいた。 知らないものや世界は、まだまだ数え切れないほどある。でも、私たちは確実に日々を重ね、年を取っている。知らないものを減らすためにではなく、きっと、知らないものを見つけるためにだ。
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