月に舞う桜

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2006年05月13日(土) 一週間総まとめ

今週はずっと日記を書けませんでした。すみません。別に仕事が忙しいわけじゃないけれど、何だか精神的にバタバタしていました。
日々、些細なことでもいろいろ思うことがありますね。一つ一つを忘れないように日記の形で残していきたいのだけど、いざ書くとなると面倒になって、思ったり感じたりした瞬間の鮮やかさが薄れていってしまいます。それが時にはかなしくも残念でもあり、でも、そんなに悪いことじゃないとも思うのですよ。永遠なんてものはないし、なくていい。色褪せていくからこそ、「いま」は美しいんだもの。
とか何とか言いつつ、一週間を振り返ってみます。

月曜日
教育基本法の改正案のニュースに首を傾げる。個人の権利や自由が尊重されるあまり公共の精神が失われている、と言うけれど、本当にそうなんだろうか。そもそも、いまの日本社会で、個人の権利や自由は本当の意味で尊重されているんだろうか。様々な事件でたくさんの子供が犠牲になり、年間の自殺者が3万人を超え、格差が広がりつつあると言われるこの社会で?
個人の権利や自由はそれぞれが自分勝手に主張するものじゃなく、尊重「し合う」もの。「個人」というのはさ、自分のことじゃなくて、自分も他人も含めた一人一人のことなんだよ。公共の精神とは、個人を尊重し合うためにこそ必要なものだと思う。最初から一人一人が尊重されているのなら、公共の精神なんていう言葉をわざわざ持ち出す必要はない。でも、残念ながら、放っておくと私たちは他人のことなんて顧みずに好き勝手にやってしまう。だから、「公共性」や「社会のルール」という言葉で個人の尊重を促しているのではないの?
公共の精神が失われたら、それはどこかで誰かが泣きを見ているということだ。それじゃあ、個人の権利や自由が尊重されているとは言えなくなる。もし、昔と比べて公共の精神が失われているという見解が正しいのなら、それは個人の権利や自由が尊重され過ぎているからではなくて、逆に、本当に個人が正しく尊重されていないからなのでは? 「尊重」に「され過ぎ」なんてことあるわけないじゃない。意味を履き違えていることはあるとしてもね。
「公共の精神」と「個人の権利や自由」を相反するものを考えること自体、教育の根本思想として間違っていると思うんだけど、どうなんでしょう。公共性という言葉が悪用されて、どんどん生きづらい社会になるのはご免だ。

火曜日
カウンセラーもオペレーターも基本は同じだということを再認識する。両者とも、つまりは手助け(問い合わせに答えることも広い意味での「手助け」であるとすれば)を求めている人とのコミュニケーションが仕事なのだ。コミュニケーションで最も大切なのは、自分が何を話すかではなく、相手が自分に何を伝えようとしているかをいかに理解するか、ということ。相手が言いたいことを受け止めて理解しなければ、自分が何を話すべきなのか判断できるはずがない。

水曜日
職場に来た業者さんに、ちょっとときめく。脚立を抱えてフロア内を颯爽と歩き、手際よくエアコンのフィルターを換えて回る。男の人が体を動かして働く姿は恰好いい。汚れた作業着さえ、「働く男」の魅力を引き立たせるアイテムの一つになる。
しかし……ほんの数分いただけの顔もそれほどよく見たわけではない人にときめくなんて、何だか末期症状ではないかしら。女ばかりの職場というわけでもないんだけれどなぁ。でも、若い男の人がほとんどいな……(以下自粛)。

木曜日
帰り道、雨上がりの湿ったにおいに包まれながら、すべての人よ幸福であれ、と思う。木曜日だから疲れているし、空気は少しべたべたしていて快適とは言えなかった。でも、雨上がりのにおいが好きな私は、悪い気分じゃなかった。
本当にたまに、「世界中のすべての人がこの瞬間に幸せでいますように」と願うときがある。私は人を憎むし恨みもする。でも、そんな感情はどうでもよくなって、ただ誰もが幸せであってほしいと強く思うときが確かにあるのだ。それはちょっとした心の持ちようなのかもしれないし、いろいろな条件が重なって起きる奇跡的な自然現象のようなものかもしれない。私が分かるのは、自分の中で物事がうまく回っているということ。
愛する人たちや私を愛してくれている人たちはもちろん、かつて愛した人も、かつて私を愛し、そして離れていった人も、私を愛さなかった人も、私が傷つけた人も、私を傷つけた人も。それから、まったく触れ合わずにいる、どこかの誰かも。どうか、すべての人が幸せを感じていますように。それがたった一瞬の自己満足に過ぎなくても、私はそう願った。
誰かをとても大切だと思う瞬間は、そこでいったい何が起こっているのだろう。人は、何をきっかけに他人をとても大切な存在だと感じるのだろう。たぶん、些細なことなのだ。些細なことで、人は人を大切に思い、また憎みもする。
それが愛情なのか友情なのか、それともただの仲間意識か隣人愛か、そんな名称はどうでもいい。大事なのは、大切に思える人が確かにいるということだ。

金曜日
マズローの「欲求5段階説」について考える。
3段階目は「所属と愛の欲求」となっているけれど、愛し愛されたいという欲求は、もっと細かく分類・階層化できるのだろうか。家族や友人や仲間に対する愛情欲求と(異性愛者の)異性愛欲求は質が違うし、互換性がないと。友達だけじゃ充たされないけど、恋人だけでも充たされない。一口に異性愛欲求といっても、「誰かに愛されたい」と「あの人に愛されたい」ではまた違う。それらは、階層化されるものなのか? いや、私の感覚だと違うな。友達への愛情欲求が充たされたから次は異性として……なんて段階を経ているわけではないもの。
愛情欲求。不思議だ。生理的バイオリズムとも関係あるし。
たまにこうやって無駄なことを考えたりするのが、結構好きらしい。

今日
朝から雨。『王様のブランチ』で『パイレーツ・オブ・カリビアン�供戮陵醜霾圓魎僂襦A衒僂錣蕕坤献腑法次Ε妊奪廚漏羚イいぁ�私はオーランド・ブルームよりジョニー・デップ派なのだ。
片づけをしたり、産業カウンセラー協会の会報を眺めたりしていると、あっと言う間に時間は過ぎていく。こうして今週末も何もせずにだらだらと終わっていく予感。でも、いいのだ。無駄こそ豊穣なりと、誰かが言っていた。


桜井弓月 |Twitter|Facebook


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