月に舞う桜

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2006年01月09日(月) 無知を繰り返さないために

『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』(佐藤幹夫著、洋泉社)を読み終えた。
2001年に浅草の路上で起きた、レッサーパンダの帽子をかぶった男が女子大生を刺殺するという事件について書かれた本だ。かなり衝撃的な事件だったので、記憶にある人も多いと思う。
この本の紹介を新聞で目にしたとき、「そう言えば、事件直後は報道がすごかったのに、その後の話を全然聞かないな」と、まず思った。私のアンテナ不足かもしれないが、池田小の事件や佐賀のバスジャック事件などに比べて、どこか報道が意図的に控えられている印象があった。
だから、「この本を読まなければ、知らなければ」という直観が働いた。

加害者には知的障害があり、自閉症の疑いがあった(裁判では、自閉症とは認定されていない)。
マスコミ関係者がどんなに否定しようと、報道が極端に減った理由がそこら辺にあるのは間違いないだろう。
マスコミは、どうしてこういうことから目を背けるのだろうか。不思議でならない。障害者にまつわる「美談」ならいくらでも垂れ流すのに。
そのわりに、何か事件があるたび、第一報の最後に「容疑者には精神科の通院歴がありました」とわざわざ付け加えたりはするのだよな。でも、それだけ言って、終わり。それが事件の深いところまで関わってきそうとなると、途端に退散する。「情報を伝えることの責任と覚悟」というものが、私は感じられない。

脱線した。マスコミ批判をすることが今日の日記の目的ではないんだった。

この本は、障害者だから刑の軽減を、とか、自閉症の疑いがあるから責任能力があるとかないとか、そういうことを言っているのではない。
障害をきちんと理解した上で加害者と十分なコミュニケーションを図り、全ての真実を明らかにし、正しく裁判を行い、加害者に罪と責任を理解させて刑罰を意味のあるものにする。かなり大雑把なまとめ方だが、そういうことを訴えているのだと私は解釈した。

私は、著者が言っていること全てに賛同できるわけではない。正直、「その理屈には無理があるのでは?」と思う箇所もあった。
それでも尚、この本はとても大きな意味があるし、この社会の一員として生きていくつもりの人にはぜひ読んでほしいと思う。
福祉の現状とか捜査や裁判の仕組みとか、着眼点はいろいろあるだろうけれど、読んだ感想として私が一番強調しておきたいのは、とにかく、「私たちがいかに何も知らないまま日々を過ごしているか」ということだ。
重要なことは何も知らされないまま、私たちの与り知らぬところで、物事がどんどん進んでいく。日本社会で生活する限り、そこで起きていることで関係ないことなんて一つもないのに、だ。「知らないところ」で起きていることだから、関心も持たない。関心がないのだから、もちろん現状を変えようという意識もない。そうして、私たちは無知を繰り返して、死ななくてもいい人、死んではいけない人たちが亡くなっていく。
被害者を殺したのは私たちではないし、直接の責任は全て加害者にある。何をどう考慮しても、絶対に許されないことだ。
けれども、広い視野で見れば、あの事件は社会を構成する私たち一人一人の無知と無視の結果であると思う。私たちには、被害者が亡くなったことへの直接的な責任はないが、「彼(加害者)に殺させてしまったこと」への責任はあるのではないか。
加害者には家出癖とその延長と思われる前科があった。家庭の状況から、家族だけで彼の面倒を十分に見ることはできなかった。施設入所を勧められたけれど、入所するには寄付金60万円が必要だった。生活していくのにやっとだった家族には、その寄付金を払うことができなかった。結果、彼は放ったらかしにされて、独りになってしまった。
「だから入所させておけばよかったんだ」というのはただの結果論で、何の意味もない。それに、施設を脱走した可能性だって十分あるし、結果は同じだったかもしれない。
問題は「ああしておけば、こうしておけば」ということではなくて、「寄付金を払えないために必要な支援を受けられず、社会制度から排除されてしまう人や家族がいる」ということを私たちが知っているかどうかだ。そういう現状を、日本を動かしている私たち一人一人が知っているだろうか。
加害者の家庭は妹も父親も大変な状況にあったのに、生活保護も障害者年金も、そういった類の制度を何一つ利用していなかったという。そういう制度を知らなかったという。それは、彼らだけの責任だろうか。いくら制度があっても、そこからこぼれ落ちている人がいる、この現状を私たちの中のどれだけの人が知っているだろうか。
ものすごく残酷な言い方だが、それが加害者とその家族だけの問題なら、無視しても私たちには差し支えない。けれども、彼らだけの問題ではないのだ。彼らを取り巻く問題が巡り巡って、完全な第三者の人生を奪うことに繋がっている。
だから、私たちは知らなければいけないのだと思う。

本には裁判でのやり取りも書かれているが、この国の裁判があまりにお粗末なことに唖然とした。
量刑のことは、私には分からない。どんな罪にどの程度の刑が妥当なのか、私には判断できない。問題は判決ではなく、そこに至るまでの過程だ。
ストーリー(=結末)が最初から用意されていて、全てはそこへ行き着くための辻褄合わせのように感じられるのだ。結局、重要なことは何一つ明らかにされないまま、結審されている。真実の追究なんて、どうでもいいみたいだ。
自閉症の人は、コミュニケーション能力に乏しい(裁判では自閉症の認定はされていないが、加害者の「自閉性傾向」は認められている)。こちらが強く言うと、それに惑わされたり、従ってしまう。本を読むと、そういった傾向についてまったく配慮されずに取調べと裁判が進んでいることが分かる。

最後に、私自身のジレンマについて。
これだけ長々と書いておきながら、私はいつか忘れてしまう。事件のことも、衝撃も、怒りも、悔しさも、そう遠くないうちに、何事もなかったかのように忘れてしまうだろう。
私たちは、いつもそれを繰り返しているのだと思う。忘れるというのはある種の健全さなのだけれども、そうやって、私たちは何度も無知に戻っていく。
忘れないで、何かを目の前に突きつけられたまま生きていく、ということを、どうしたら出来るのだろう。
それをいつも思う。

『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』


桜井弓月 |TwitterFacebook


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