優雅だった外国銀行

tonton

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29 労働組合誕生
2005年06月17日(金)

企業には、それぞれの社風と言うようなものがあると謙治は信じていた。 パリ国立銀行のそれは、温か味の有る労使関係であった筈であった。 しかし、そんなものはたった一人の、その時の上層部によって一変してしまうのだろうか。

総務と人事担当のフランス人モレオン氏は、着任後しばらくは、謙治との関係はとても良かった。 しかし、日本の銀行を定年退職して、監査としてやって来た林氏と、アメリカの大学出だと言う藤森氏が総務に加わった頃から、様子が変わって来た。 モレオン氏がどの様な家系の出なのか、謙治は聴いた事は無かったが、彼は人をその家系により価値を決める様なところが有った。 大磯に別荘があるという行員がいたが、モレオン氏はその人を信頼した。 林氏は世田谷に土地があり、庭にアパートを建てて外人に貸していた。 だから、モレオン氏のお眼鏡に叶った。 林氏は密告魔でもあった。 自分の物差し、日本の銀行に居た時の大きな組織での物差し。 何千人もが働いている企業での物差しを当てて、異なっていれば悪とし、すべてをモレオン氏にあやふやな英語で密告した。 該当者への注意も、話し合いも無かった。 モレオン氏は、林氏が悪いと言えば、そのまま受入れた。 藤森氏は、モレオン氏に依ると京都に大きな家を持っている事になっていた(あとで知ったのだが、藤森氏の家は、京都であるが日本海の舞鶴であったし、決して大きくはなかった)だから彼も合格なのである。 真正直でやる気満々の藤森氏は、残念な事に総てが的外れであり、常識から遠くかけ離れていて、モレオン氏意外に彼を支持する者はいなかった。 職場全体が暗くなり、不満がくすぶり始めていた。

パリ国立銀行東京支店が開設されて10年以上になったが、まだ労働組合が無かった。 だれも、その必要性を感じなかったからだ。 だが、ここ1・2年の職場の雰囲気は、決していいものでは無くなっていた。 まず、第一の不満は、ベースアップが一部の人を除いて殆ど無くなっていた。 次に、高圧的な藤森氏の態度に皆は反発していた。 監査の林氏が、彼の職務柄、支店内を歩き回るのは仕方の無い事であったが皆から嫌われた。 忙しい時に、とんちんかんな質問をして回り、ボケの進んでいる林氏は、何回説明されても理解しない事が多く、遂には険悪になる事も珍しくはなかった。 己の非に気付かない林氏のモレオン氏への報告は、ひどいものになった。

モレオン氏は又、秘密主義者であることも職場を暗くした。 大して重要でもない事を秘密にした。 事務所の模様替え、配置替え、間仕切りの移動という様な事が頻繁に行われていて、謙治は、巻き尺を持ってあちこち測り、図面を書いたりしたが、それを秘密裏に行うことは殆んど不可能であった。 しかし、モレオン氏は、自分が発表する前に誰かがそれを知っている事を非常に嫌った。 前支店長のシャピュー氏が、謙治を総務オフィサーと成るように手配して行ったし、時々舞い込んで来るシャピュー氏からの手紙には、総務オフィサー津村謙治となっていたが、モレオン氏が、その昇進を握りつぶしてしまった事も知った。 秘密を守れない者は、総務部のオフィサーには相応しくないというのが理由であるらしかった。

全員が、定年は60才だと信じていたのに、多くの社員に慕われていた契約社員の一人が、健康を理由に55才で契約継続がならなかった。 行員の中にくすぶっていた不満が、一挙に爆発した。

ある夕方、突然大勢がぞろぞろと総務部へやって来た。 労働組合を作ったというのである。 謙治は、外人達と近すぎるので、発足に当たっての一切を知らされずにいた。 しかし、総務部員である謙治が組合員になることに、誰も異論を挟まなかった。 どちらかというと火消し役ではあったが、謙治も組合員になった。

血の気が多いのが大勢居た。 普段は、和やかに、愉快に付き合っている連中にとんでもない過激派が居ることに謙治は戸惑った。 ストライキを真剣に考えている者もいた。 1980年代中頃で、まだまだ人手不足の時代であった。 職種に依っては引く手数多なのである。 謙治自身、転職を考え始めていた。 藤森氏は、謙治より2年若いので、定年まで彼の部下である事を考えると憂鬱になっていた。 しかし、謙治は未だ、フランス人を、パリ国立銀行を信じていた。 従業員をないがしろにするような銀行では無いと信じていた。  だから、組合員でありながら、常に経営者的な考え方で組合の会合に挑んだ。 「お前達は要求ばかりするけれど、ちゃんと恥ずかしくないだけの責任は果たしているのか? 長い経験からパリ国立銀行の経営陣が、それ程冷たい連中とは思えない。 短期的に嫌な想いをしているかも知れないが、いま過激な事をすれは、必ず悔いが残る」と説いた。

謙治は、パリ国立銀行を愛していた。 この時期、一部のアメリカや英国の銀行、それにオランダの銀行が労働争議で有名であったが、謙治は、パリ国立銀行をそのような銀行と同類にはしたくなかった。




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