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■ 見上げる海【ロビナミ】
文化祭の後片付けを終え、生徒がみんな帰ったかを見回っていたとき、机に腰掛け鼻歌混じりに夕焼け空を眺めてたのを見つけた。 それが何のきっかけだったと言うことも無いけど、キスをして、家に連れて帰って、抱いて、お金を払った。 「四千円でいいよ」 唇の端を持ち上げて得意気に言ったのを、教師がよく浮かべる例の苦笑いで見返した。 そうかと思えば頭の中では財布の中身を思い返していて、一回分しかないわなんて考えていた。キャッシュは持たない主義だったのだ。 「もう一度、してもいいかしら?」 息も絶え絶えの少女に、浅ましい欲望を翳して熱い息で言う。少女はぜーぜー肩で息をしながらも相変わらず得意気に、「疲れるから倍額ね」なんて言う。財布の中身じゃ足りないことを告げれば、「八千円相当ならなんでもいいわよ」と、ざわつくようなキスで誘ってくれた。
私は彼女にカードを与えた。迂闊な物より汎用性があっていいでしょう?と言ったら、呆れかえった顔で受け取ってあんたはバカねなんて呟いた。 それからセックス毎にキャッシュを使う手間も無く済んでいて、私は非常に気楽だった。気楽で、責任や罪悪感も金銭感覚も失ったままの関係が続いていた。 ある日ふと気になって明細を見た。それまで、彼女とのセックスに正の棒を書いて引き落とし額と照らし合わせるようなことなどしたことも無かった私は、彼女がどれぐらいの頻度で何をどれぐらい買ってるかなんて気にしたこともなかった。 何気なく眺めたカードの明細はとても簡潔で、ほとんど彼女に渡したときのままの残高と、よく似た数字が残っていた。 ぼんやり眺めているうちに、ある一行で目が留まる。 ネットで一冊だけ、本を買っていた。
「何を買ったの?」 ある夜思い出して、うたた寝るように瞼を閉じていたナミに問い掛けた。 面倒くさそうに開かれた目は、夜の中でもよく映える。きれいで、ときどき触れたい衝動に駆られる瞳だった。 「何をって?」 「本を、買ったでしょう?」 「……あーそっか、履歴残るんだっけ」 見られたことを別段気にする様子もなく、ただ本当にもう面倒くさいと言うふうに欠伸をした。私はそんなに面倒くさいなら別に問いただすほどでもないと思い――そもそももう手放したお金で彼女が何を買おうと彼女の自由だ――何も無かったように髪を撫でておやすみなさいと言った。 「見にくる?」 日曜、うちにおいでよと、一言こぼしてナミは眠ってしまった。初めての家へのお誘いは、とても呆気なかった。
日曜日の朝、学校では忠実な教師と生徒を演じている私たちは、とても珍しく陽の光の下で言葉を交わしながら銀杏の並木道を歩いていた。 「ひとり暮らしだって、言わなかったっけ?」 「あなたからは聞いてないけど、知ってたわ。一応教師だから」 「ふぅん」 着いてみれば立派な一軒家。赤茶の屋根は遠くからでもよく見えて、レンガ塀の中の庭は、春になれば世界中で一番きれいな庭になるに違いなかった。 「ひとり暮らし、よね?」 「親が残していったの。使ってるのは自分の部屋だけだし、中は汚いわよ。どうぞ」 確かに人の気配を感じさせない物静かな気配はあったけれど、家中どこも整然としていて、家主の性格を反映していた。 「ここがあたしの部屋」 開いたドアの向こうには――海が拡がっていた。 息が止まるほど青い海の上に、突然放り投げられてしまったみたいな錯覚で、目眩がした。 頬を風がゆき過ぎて、髪がなびく。それも錯覚だと、知っていて。 「ときどき、とても海が恋しくなるの。きっとあたし、前世は魚か渡り鳥だったんだと思うわ」 ふらふらともふわふわともつかない不安定な浮遊感を感じながら、白い壁と言う壁に貼り出された海原の写真をぐるりと見渡した。静謐で、躍動する声が近く遠く聞こえてくる。 「今でも自由に海を渡る夢を見るもの」 足元の、もはや背表紙だけになってしまった写真集を視界の隅で捕らえながら、私はなんて子に恋をしてしまったのだろうと思った。
大海原を自由に駆け抜けていく少女が、今この腕に居ると言う奇跡。
2000年01月28日(金)
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