暴かれた真光日本語版
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2004年11月23日(火) 神代文字の真実(16)-(20)

298 神代文字の真実(16)――山田孝雄論文(c) A 2004/01/18 20:33

 以上は徳川時代に生じた�誕緤源�の妄を論じたのであるが、近頃またいろいろと�誕緤源�で書いた古代の文獻が傳はつてゐるといふことを唱ふるものがあらはれて、それに記す所の所謂�誕紊了�が古事記や日本書紀にいふ所と大攣に違ふ。さうしてそれによれば、古事記や日本書紀は遥かに低級なものとなつてしまふといふやうな説がある。それらのうち世に名高いのは大分縣から出たといふ「上記(ウエツフミ)」であつて、これは昔大友能友の編したものだといひ、四十冊あり、明治十年に吉良義風といふ人が「上記抄譯」(三冊)といふを出版し、又「上記徴證」といふを明治十三年に出版した。又「天津�蓋妬現顱廚箸い佞發里�常陸磯原に住む竹内某といふものが傳へてゐるといふので、これらの二つが大立物として、かの大戰中、又戰前に盛んに宣傳せられた。これらは皆正しい學者は一人も是認し得ないものであるが、當時世間に通りのよい大官武将や政治家、實業家等、これら國文國語の學に通じない人々を利用して盛んに宣傳しつゝあつた。私は、戰時の頃内閣に肇國聖戰蹟調査委員會といふを設けられた時に委員になつてゐたことがあつたが、當時これらのものを古事記・日本書紀の上に加へようとする氣運が盛んで、甚だしく迷惑したことがあり、委員は學者が過半であつたが、誰一人明かにその非をいふ人が無かつたから、止むを得ず、自分がその矢面に立つたことがあつた。今その言を繰り返すことはせぬが、それらの信すべからぬ要點だけを述べて急かねばならぬ。この上記抄譯といふものは、私も讀んで知つてゐるが、その文字は既にも述べた所謂豊國文字といふ體で、猥雜見るに堪へぬもので、�胆擦隆兇覆匹寮犬犬Δ戮�もので無いのみならず、言語文章も後世の風のもので、�誕紊里發里覆匹箸六廚劼發弔�ぬものである。又かの天津�海慮妬現颪箸い佞發里楼豼慊禝�
(P46)
のもので、その文章には明治時代の訛語さへも交つてゐるものであり、その妄りなものだといふことは今私がいふまでもあるまいと思ふ。これについてに往年雜誌「思想」(第百六十九號)の上で、文學博士狩野亨吉氏が「天津�蓋妬現顱廚糧稟修箸靴督墨世靴難韻構蠅�殆ど無いからである。私はなほこゝにこれらの所謂�誕緤源�で書いた文獻を一括して論じておく必要を感ずる。それは何かといふと、これらの文獻は、恐らくは幕府の末造の頃、�誕緤源�論の盛んなころ、特に平田篤胤の�誕緤源�論に刺戟せられて起つたものだらうと思ふからである。既にいうたやうに、平田篤胤は初は�誕緤源�を信じてゐなかつたが、文化八年に駿府に赴いて門人に講義をした頃に�痴��短�辨論を見てから、その存在を信じ初めたのであるといふことは、�短�日文傳の上巻第十枚に注記する所である。かくして古史徴開題記もその際に起草したのであるが、そのうちに論ずる所の内容は、
  古傳説の本論
  �胆な源�の論
  古史二典の論
  新撰姓氏録の論
  上件三典に添ふべき書等の論
といふ順序になつてゐる。これは先づ古傳説が存し、それらを記録したのが古典である。そこでその古典を記録する文字の事がわからねばならぬのであるから、上の目次は論文としては條理の整つたものである。それ故に、この�胆な源�の論は、たゞ�誕紊吠源�があつたといふ論だけで事濟されぬものであつて、その�誕緤源�で記録した文獻が存在してゐたならば、それを採るか取らぬかは別として、必す一往の論斷を下してゐなければならぬ筈である。然るに古史徴開題記では、さような文獻の存否に関しては一言も觸れてゐない。さてこの開題記にいふ所を基として、汎く海内を捜索して、多くの�短�を集めて研究し、その信ずべきと疑ふべきとを区別して、�短�日文傳に著したのであるが、この書にもさやうな文獻


299 神代文字の真実(17)――山田孝雄論文(d) A 2004/01/18 20:34

(P47)
の存否については一言も觸れてゐない。さやうにしてそれらの�誕緤源�を傳へてゐる諸の人々のいふ所も亦四十七音の字表だけで、それらを用いた文書を存してゐるといふことは一言も聞かないのである。ことに平田篤胤はその門人が全國に亙ってゐて、その研究資料として捜索旁博殆ど至らざること無かつた程である。かくして種ゝ雜多の�誕緤源�といふを得たけれども、その文書記録といふものは一もあらはれてゐない。この開題記の新撰姓氏録の序文の解説、倭名類聚鈔の説明の如きは、空前絶後といふべき程の周到なものである。この人はかくの如くにし文字の論を經過してから、古典の論に移つてゐる。この用意周到の古史の研究、叉その門人が殆ど全國に洽くそれらを總動員して博捜到らざるなく、又�胆腓了�は根ほり葉ほり、市井の徒にも問ふを恥としなかつた篤胤の耳目に、それらの�誕緤源�の文書は一も觸れなかつたことは信じなければならぬ。もとよりこれを以て、直ちに篤胤時代にさやうのものは必す生じてゐなかつたと斷言することは出來ないが、十分九までは推測をして差支ないと思ふ。とにかく平田門にはさやうな文獻を傳へてゐたものは無かつたことは確かであらう。さやうな事情から、それらの文獻は平田の�誕緤源�存在論に乗じて作成せられたものと思ふのであるが、かの磯原の天津�海慮妬現颪覆襪發里蓮¬声�時代から後のものたることは、狩野氏の論證によつても歴然たるものがある。
 私は最後に伊勢の皇太�探椶麿誕緤源�が傳はつてゐるといふ説について一言しておかねばならぬ。近頃かやうなことをいひふらし、しかその文字といふものを冩眞にとりて著書に掲げてゐるものまであるのである。かやうな�誕緤源�といふものは諸杜に傳はつてゐるといふけれど、既に瓊矛拾遺に�誕綰景源�を諭する所に「於伊勢及加茂曾無之」と述べてゐるのであるから、決してそのやうなものは無かつた筈である。私共はさやうなことは決して無いと確信してゐたのに、それが有るといひ、しかも冩眞にまでとつて公に出版してゐるのを見て驚いてゐた。如上の事だから、若しさやうなものが存在するとすれは瓊矛拾遺を著した元祿十三年以後に生じたことに相違無いのである。かくして私は昭和十五年四
月�探楾蔦楷枋垢凌Δ魴麈い垢襪海箸砲覆弔拭��探楾蔦楷曚��探椶励貫曚垢觸蠅任△蝓�館長は�探椶琉貎Π�である。こゝ
(P48)
に私の職責上からも、その�誕緤源�の有無を精しく調べておかねばならぬと思ふので調査した。そこで�探槓幻砲量槝燭鮓�ると、
 �叩‖紂(検〇�  九十九通 冩   綴一
 �叩‖紂(検〇�  冩         一
と二種のものがあり、いづれも現存してゐる。この後の「冩、一」とあるものを見ると、所謂日文の草體を大きな字に冩したもので、それは天明四年に村井古厳の奉納した由の印記のあるもので、それは奉納書目に載せてある。即ち�探楔登圓里發里任覆�、�短�辨論にいふ所の文字であることは明白である。他の「九十九通 綴一」と書いてあるのも現存してゐる。それは目録に綴と記してあるのは誤で、その實物はばらばらになつてゐて、木の箱に納めてあるが、九十九通は存在してゐる。之はすべて美濃紙様の紙を三四枚或は五六枚、糊で繼合せた長い紙に、その所謂�誕緤源�(多くは日文の草體又諺文體もある)を大體紙を長くして堅二行の程度の大きさの字として墨で雙鉤にした所謂籠字にしたものであつて、そのうち二十一通はその輪廓の中に朱を填めてある。その外に墨を填めて太い墨字に見ゆるものも十數通あるが、その他は白拔の籠字のまゝである。その紙質墨色を見るに、明治の初年頃を下るものであらうが、それを溯ることの無いのは明かである。而してその間に「忠服謹啓」と自書した書束が一枚添はつてゐる。その文面は次の通りである。
                    忠服謹啓
 過般御申聞之�誕緤源�御受取申上候だけ朱入出來仕故差上申候員數ハ先日差上置候ハ八枚此度ハ拾三枚合テ貳拾壹枚
 御改御落手�咳,妨羣構佇�希上候拜
  十二月廿六日
  落合直亮様
 とある。これによると、苗字は分らぬが忠服といふ名の人が、落合直亮の以來を受けて前後二度に合計二十一枚の�誕緤�


300 神代文字の真実(18)――山田孝雄論文(e) A 2004/01/18 20:35

(P49)
字に朱を入れたことは明白にわかる。而してその朱入二十一枚は現に存するので、この手束と一致する。落合直亮は後に名高くなつた落合直文の養父で、明治維新の志士の一人であつて、明治六年以後�探檍咳,魑�し、叉�探槐�宜に任ぜられた人である。この手束の年は分らぬが、直亮が�探槐�宜在任中で、�探檍咳,梁減瀉罎任△襪海箸狼燭劼睫気ぁ��探檍咳,鰐声�十五年に閉鎖したのであるが、その際、�咳,僚饑劼��探槓幻砲飽楷匹擦蕕譴人海任△襪�ら、この時から�探椶僚衢�となつたものである。それ故にこれらは決して古いものでは無い。又、上にいふ忠服の手束の外に「田原賢瑞模冩之分」と記した紙片もある。即ちこの人はその籠字を模冩した一人であらうが、この外にも冩した人があるかどうかわからぬ。又これらは何を基にして爲したのかもわからぬ。とにかく、これらは�探檍咳,農修靴燭發里如△修譴鯡燭犬燭里詫邱臘称爾任△弔燭海箸鰐税鬚任△襦�紙も冩しも極めて新しいことは上に述べた通りで、明治の初年の物たること一點の疑も無い。而してそれら紙片には往々その�誕緤源�の筆者と定めた人の名を記してある。その中、かの朱入二十一枚についていふと、
 菅原道實公、道實公、田原秀��母多喜能(二)、俵藤太秀��、從五位上平太貞盛(三)、平将門(二)、源義家、太宰帥泰成親王筆(二)、南朝春宮大夫帥兼、右近大将長親(二)、佐野藤原基綱、中納言經高、中納言氏定 帥兼、右近大将長親(二)、佐野藤原基綱、中納言れらにはすべてその飜譯を平假名交りで書き副へてある。それを讀んで見ると「多喜能」以下将門まで、及び基綱千常の名を記してある十枚は、すべて古事記の文句であり、他は菅公の歌二首と新葉集の歌九首とである。他の七十餘枚の名を見ると、
 中臣連鎌子筆(三)、太安麿、稗田阿禮、舎人親王、和氣清麿、小野篁、源�鮓�
など人口に膾炙してゐる人の名は多いが、中には「田原藤二宗��」など奇妙な人名もある。それらの内容は粗々朱入の分と似たものである。中には「天兒屋命」「國御柱�叩廖崚係翆踵叩廚箸い寥J犬鯢�へたものがあり、いづれも「中臣連鎌
(P50)
子筆」とあつて、墨書であるが、填墨したことは一目瞭たるものである。その外のものも朱入の分と大同小異で、我々の熟知してゐる古典の傳へを覆すやうなものは一も無い。たゞ往々首肯し難いことが加はつてゐるけれども、それらは後人の考へによつたものであるといふやうな弱點が散見するといふ程度のものである。要するに、これはさほど惡意があつて何かをたくらむといふ目的でしたものとは認められないもので、、いはゞ無邪氣な氣まぐれなすさぴともいふべきもので、上記や磯原文書などの列として叱責するにも當るまいといふべきであらう。しかしながら、他の知らぬ人から見れば、惑を起さしめ易いものであるといはねばなるまい。それ故に、�探椶任發気曚斌簑蠅砲呂擦蕕譴討陲覆�つたと思ふ。然るにさ様の物をば、�探椶紡生鼎�ら傳はつたものだといひ、それを冩眞にとつて著書を飾つてゐる人がある。私がその著書の�探椶砲△譖誕緤源�といふものを調べて見たら、如何にも上述の九十九通の内にあるのであるが、それは籠字で輪廓のみの白字であるのに、填墨して墨字として冩眞にあらはしてある。これ亦事實を交亂するものである。要するに、�探槓幻砲砲△襪發琉貭未和式羝鉄爐類枅悉颪里Δ舛砲△蝓�九十九通は明治の初年に�探檍咳,埜電妓轍療�を�誕緤源�といふもので書かせたものが�探槓幻砲翻殿阿靴燭世韻里發里任△襦�私は�探椶煉胆擦鮗蕕諤�に、この事を明白に世に公にしておく、責任を感ずるが爲に、以上の言をなしたのである。


301 神代文字の真実(19)――山田孝雄論文(f) A 2004/01/18 20:36

 なほ今、更に顧みるに、�誕紊吠源�が在つたらうといふ論は、釋日本紀より古いものは未だ知らないのである。釋日本紀には別に「肥人之字六七枚許」が大藏省の御書の中に有ると云ひ、それは假名の體で「乃仁等」は明かに見ゆるが、明かでないものもあると云つてゐる。然るに本朝書籍目録には「肥人書五巻」と見ゆる。醍醐天皇の頃に六七枚許であつたものが、鎌倉時代に五巻も有るといふのであるから、同一のものとは必すしも云はれぬ筈であるが、從來多くの人はこれを同じものとしてゐる。さうしてこれも�誕緤源�であらうと平田篤胤は論じてゐる。本朝書籍目録はこの次に「薩人書」といふ目を掲げてゐるが、巻數を示してゐないから詳かなることはわからぬ。平田篤胤は之も�誕緤源�だと云つてゐるけれど、これらすべて證據の無い事である。たゞその肥人は、肥前肥後の國名から推せば、古の火國即ち肥國人のことであ
(P51)
らうし、薩摩國人を薩人と云つたのであらうが、それら邊鄙の地方に特殊の書體が行はれゐたのかも知れない。それ以上の憶測は行はるべきものではない。然るに、成形圖説がその釋日本紀の文を引用しつゝ「肥人之字」を削り、「�誕緤源�」と攣へて記して以て�誕緤源�存在の證としたことは、人を欺き古書を誣ふる罪輕からぬものであるのに、鶴峯戊申の如き學者がこれに附和雷同して、先代舊事本紀大成經の非を遂げしむるに止まらず、ますます其の妄を助長し曲解を逞くし烏有の�端劼留�有の寶物に烏有の文字が彫り付けてあると云つて、その�端辧△修燐鑛�、その文獻をさも實在してゐる様に説き、遂に彼の天名地鎭を以て世界一切の文字の起つた源だなどと説くに至つたのは、眞に言語道斷の妄誕である。
 かくして、今日の所謂�誕緤源�と稱ふるものは一も信じうべきものでは無いのである。若し今日以後眞に太古の日本の文字と信ぜらるべきものが世にあらはるゝならば、それは四十七音でもなく、舊事大成經の唱へた「ヒフミ」乃至「ホレケ」の排列に成つたものである筈は無い。しかし、さういふ形をしたものでも後代の偽作は必すどこかに馬脚を露して識者を欺きおほせうるものでは無い。(昭和二十七年十月廿五日稿)


302 神代文字の真実(20)――結論 A 2004/01/18 20:38

 こうして、�探楾蔦楷杪舩椶僚藺絣慊垢砲茲蝓⊃逝緤源�は完全に否定された。21世紀の世でも伊勢神宮に所蔵された神代文字の写真がネット上で氾濫しているが、天界でさぞかし嘆いておられることだろう。去年の秋季大祭に皇學館大学の関係者が来賓として出席しているが、いったいどういうつもりで呼んだのだろうか。
◆「S教M光」誌H15年12月号 秋季大祭教示より
(P15) 今や人の生きる「徳目」と「礼儀」を教えるところは日本では、本日来賓としてご参拝なさいました皇學館大学、あるいは松江の淞N学園、そしてM光青年隊、また神社界や仏教界の僅かな団体においてしか見ることはできません。
  □
 この論文が発表されて50年以上を経過し、日本の考古学は格段の進歩をとげた。しかるに、遺跡や古墳から神代文字の書かれたものは一切発見されていない。神代文字は古代文字の捏造であり、石器捏造と同一次元である。
http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/subaru/subaru5.html
 現在、日本で最も古い文字の使用例は、三重県大城遺跡より発掘された土器に書かれていた文字である。
http://member.nifty.ne.jp/japan/mie/ano/syutudoano.html
 松江市の田和山遺跡から楽浪郡製のすずりが発見されている。
http://www.chunichi.co.jp/tokusyu/kouko/k20011004.htm
 また、沖縄・与那国島の海底遺跡から、カイダ文字(象形文字)が発見されているが、これは表音(単音)文字の神代文字とは全く次元が異なる。
http://www.wonder-okinawa.jp/024/japanese/tano/hikarino/kaida/
http://www.b4ok.com/book/yonaguni/yonaguni.htm
 日本の古代文字研究の今後の進展を期待したい。
  
 私が山田博士の論文を見つけた経過をお教えしよう。まず、ある公立図書館で『神道事典』を閲覧して、『所謂�誕緤源�の論』なる論文の存在を知った。次に、Yahoo!で検索してみると、『藝林』という学術雑誌に掲載されているらしいということが判明した。『藝林』の所在をnetで検索し、ある図書館で閲覧できた。極めて能率よく行き、社会人の仕事の合間に十分可能であった。20年前の私の学生時代なら、おそらく「図書館へ行ったが、参考になる本はみつからなかった」で終わっただろう。
 さて、S教M光の教え主代理・岡D晃Y氏は、國學院大學で神道考古学を専攻したと称しているが、彼の経歴に対し重大な疑念をいだかざるを得ない。彼は大学4年の夏に、キリストの墓があるといわれる青森県戸来(へらい)村を旅行した。
◆「M光」誌昭和44年12月号P18-24
紀行記――戸来を尋ねて 聖地キリスト村
東京青年隊々長 Te島 泰六 (国学院大学四年)
(P22-23)
 やがて遂に私達はドコノ森を見つけた。ドコノ森を捜すのに骨が折れた。しかし捜さねばならなかったのだ。そこには一万個以上に及ぶ神代文字の刻まれている骨片が、山の土中に埋もれているからだ。もちろん山に登り、土中から神代石を発掘する事は時間もなく、無理な相談だった。けれども、三角形のドコノ森の雄姿を遂に見つけたのだった。
  □
 この『ドコノ森』を発掘調査して科学的鑑定を行ない、成果をH記念館に展示することを要求する。それが県登録博物館を開設する団体の責任者としてあるべき姿勢である。



日記作者