| 2007年01月05日(金) |
スローライフに戒めを |
テレビでやっていた車のCMソングでやたら「スローライフ」と連呼しているのを聞いて何か引っかかるのを感じた。 この場合のスローライフは、大量生産高速消費、なんにでも手を出して忙しないライフスタイルに対抗して生まれた、必要なだけ生産して節約しつつ消費し、最低限のことをゆっくりやろう、というライフスタイルの事を指す。 これは今調べてみて初めて知ったことで、それ以前は「切羽詰って忙しく生きていても幸せに離れない、ゆっくり気楽に生きていこう」というライフスタイルのことだと思っていた。大体の人もそうなのではないかと思う。 意味としては問題があるほど外れてはいないが、用途は間違ってはいけないと思った。
僕が思うに「スローライフ」は頑張りすぎている人を休ませてあげるための言葉だ。 たとえば仕事をしたこともない、引きこもりのニートがいて「これはスローライフだ」と胸を張って言ったとする。そうすると僕は平手で顔を張りとばし、一喝くれてやりたくなるだろう。 「スローライフ」は元からがんばっていない人間に正当性を与える言葉ではない、と。
今夜の番組に、『超大型歴史アカデミー100人の偉人・天才編』を見ていたのだが、その中に相田みつをが取り上げられていた。 「にんげんだもの」という詩集で有名な書家らしい。僕も名前を今夜認識する前にこれらの詩の存在は知っていた。
「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」
「くるしいことだってあるさ 人間だもの まようときだってあるさ 凡夫だもの あやまちだってあるよ おれだもの」
「愚痴をこぼしたっていいがな 弱音をはいたっていいがな 人間だもの たまには涙をみせたっていいがな 生きているんだもの」
このように「人間というものは弱いものなんだ」ということを強調している。そして「弱いんだから、間違ってもいいんだよ」という意味であって、「弱いんだから頑張らなくてもいいんだよ」とはニュアンスは一切込められていない。
これらの言葉は何のために存在するのか。
頑張って、それでも失敗した人を慰めるために、 失敗するのが怖くて進めない人に歩き出す力を与えるために、存在するのではないだろうか。
言葉に慰められ、言葉に励まされるうちは、まだいいだろう。ただ、言葉に甘えるようになっては危険信号なのである。 言葉に救いを感じる裏で、「これでいいのか」「自分はその言葉に甘えていないだろうか」と、常に自分を戒める気持ちを忘れるべきではない。
ちなみに、常に戒めろ、というのではない。何時も戒めるのを忘れるな、というところがミソだったりする。
web拍手レス(最近日記がどんどん説教くさくなっているな……調子に乗らないようにしなければ)
今日も拍手コメントばなかとよ。
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