| 2007年10月10日(水) |
小説 棚田 嘉十郎 中田 善明 |
棚田 嘉十郎 平城宮跡保存の先覚者
平城宮大極殿跡 西乾 是より 二十丁
明治四十五年三月建立 棚田嘉十郎
JR奈良駅のロータリーにこんな碑(↑)があるのを最近になって知った。
植木職人の棚田嘉十郎が奈良公園で仕事をしていたら、観光客から平城京は何処ですか、と聞かれることが多々あったようだ。 奈良に住んでいながら何も知らないことを恥じた嘉十郎は何とかして、大切な国の宝を守ろうと立ち上がったのだ。 より多くの人たちに関心を深めてもらおうと、坪割図と平城京から発掘した古瓦のほかに春日扇千本を用意し、表面には古瓦の文様を、裏面には坪割図の略図を印刷して、これはと思う人に進上して保存を訴えるようになった。だが、その一方では、嘉十郎を評して、無駄な浪費を繰り返す”大極殿狂人”だ、山師だなどと陰口をたたき、嘲笑うものがあらわれるようになった。 それでも 今上帝のおわす皇居は国に守られているのに、古の帝のおわした平城京が牛馬の糞にまみれていることの理不尽を辛抱強く訴える。 嘉十郎は溝辺文四郎という生涯の友とほんとうに頭が下がるような努力によってだんだんと周りの人や行政に認められていくようになった。 だがそれを利用しようとする人間が出てくるのも世の中の現実である。 それは寄付の中心となった匿名の篤志家、福田海(ふくでんかい)という仏教系の新興宗教が問題をおこし、嘉十郎はその責任を負って、ついに割腹して罪を謝すという形で亡くなった。 何とも理不尽な結果となってしまった。
つくしてもつくしきれない君のため 心きめるはきよかぎりかな
みをかざるいふくの光はなんのその 心のたましの光たつとし
大正十年(一九二一)八月十六日、 朝から暑い日であった 妻のイエと末娘のトメ子を墓参りに送り出して、数え六十三歳の生涯を閉じたのだった。
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