コミュニケーション。
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2016年09月07日(水)





抗がん剤を拒否した人のFBを覗いたら、
怪しげな民間療法ばかり薦める友達がたくさんいて、
そもそも抗がん剤を拒否したら死しかないし、担当医には同情する。
もう友達なんて信用できない。
(大意)

みたいなツイートがたくさんRTされて何回もTLにまわってきた。


拒否した当人のブログ記事を読んだら、
大人で、完全に自分の意思で抗がん剤を拒否している。
友達がそう言ったから、でもない。
抗がん剤の賛否は置いとくとして、
その人が自分の意思で拒否して、そこに友達が反応して、応援している。
多分、私が退廃的でマイノリティなんだろうが、
何の問題があるのだろう??


抗がん剤の拒否の延長には死が、というが、
そもそも人間はいつか必ず死ぬではないか…?

抗がん剤を打てば多少長生きするのだろうが、
それでも副作用や再発もありうるし、それを拒否する権利はもちろんある。
「抗がん剤を拒否して死にます」ではなく、
自分の納得行く道でがんと戦います、という意思が感じられる記事だった。

そこに他人がどうこう文句つける話とはとうてい思えないのだが…。


拒否している人に、
「私はあなたが拒否する抗がん剤を勧めてでも、あなたに生きて欲しい!」
と気持ちを伝えるのはもちろん素晴らしいし、そう言う権利はあるが、
自分も同じ治療を受け、死ぬときも一緒、というわけではないのでしょう?
そもそも親でも兄弟でもないし、
親でも兄弟でも、本人の生き死にに口を出すのはどうかと思うし、
強制する権利もないと思う。

本人が悩んでいるところに誰かが介入してその選択をさせた、
という経緯なら、言いたくなる気持ちもわかるけど、
今回はそうではない。




しかし、
「そもそも人は必ず死ぬ」という場所に私が寄りすぎてるんだろうな、と思う。

こないだちらりと書いたが、
受動喫煙での肺がんのリスクが、「ほぼ確実」から「確実」になるのだそうだ。
確かに気になる人には気になるニュースだし、
私も子どもたちの受動喫煙は避けていきたいが、
私個人だけなら、それは全然構いませんといった気持ちだった。

愛する夫の吸った煙で肺がんになるのならむしろ本望だし、
肺がんは、早くに逝った、大事な人と、同じ病気。

それでも、発病するなら子どもたちがみんな成人してから、というわがままは思ったけど、
長生きしたいという意思がまずないから、
あぁ、こういうところがなぁ、と思ったことだった。

どうせ死ぬのに、長生きして、介護も受けたくないし、苦労もかけたくないし、
ボケたくもない。

義母を見ていてよく思うのだ。
義母は80代の今もボケずに基本的に元気で、一人暮らしを続けている。
しかしこんなのは、本人の資質と努力と運が重なった結果であって、
私がそういう結果を出す自信はかけらもない。
自信があったってそうならないこともある。
努力が報われないこともある。
事故に遭うことだってある。

必要以上に、生に執着することの、何の意味があろう。



夫より先に死んだら、夫に出来ることが少なくなる。
子どもより先に死んだら、やってあげられることが少なくなる。
それだけが。
それだけが、私の理由なのだ。


ずっと考えながら生きてきた。
何故生きるのだろう。
何のために生きるのだろう。
私は天才でもなく、社会貢献のできる性格でもなく。
ただ自分のためだけに生きている。
それが、何者かに許されているからこそ、今日も生きている。


生まれてきたかったから生まれてきたわけでもない。
生まれた瞬間から、細胞は毎日生まれ変わり、死への旅が始まる。
生きることは死ぬことであり、その瞬間までの暇つぶし。



生に理由などない。
これが、私の生の全肯定のかたちだ。





雪絵 |MAILHOMEBLOG

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