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2006年11月20日(月) そんな頃もありました

先月末から2006世界バレーの応援に燃えている。
いつもテレビの真ん前で正座をして見るのだけれど、昨日は夫が家にいたので何度も「もう少しお静かに願います」と言われてしまった。興奮して大声をあげたり床を転げ回ったりする妻は阪神ファンのオヤジみたいなんだそうだ。
金曜から男子大会が始まったのだが、女子とはまた違った魅力がある。越川選手の時速百二十キロのジャンピングサーブはふつうの人が受けたら手首を骨折するそうだし、エジプト戦では石島選手のスパイクがあごに当たった選手が脳しんとうを起こしていた。もう度肝を抜かれる迫力なのだ。
私は学生時代バレーボールをしていたので、選手のレベルの高さやプレーのすごさをやったことのない競技よりもリアルに感じられる。だからなおのことおもしろい。

部活の思い出は数多い。というより、中学・高校の六年間で記憶に残っているのはほとんどバレーボールのことしかない。
中学のバレー部の顧問は女の先生だったのだが、笑っているところを見たことがないと先輩たちも言うくらい怖い人だった。
一年生は夏休み明けまでボール拾いしかさせてもらえないのだが、コートの周りに立って先輩の練習を眺めていればいいわけではない。ボールが飛んできたらいち早く反応できるよう、絶えず膝を曲げ腰を落としたレシーブの体勢を取っていなくてはならず、これがかなりきつかった。ほんのちょっとでも楽をしようものなら、「やる気がないならやめてしまえ!」と怒鳴られた。怖さと厳しさの違いもわからない年頃だったから、本当に鬼のように見えた。
二学期もなかばになり、ようやくポジション別の練習に参加させてもらえる日がきた。先生は「百五十五センチ以上、こっちに来て一列に並べ」と言い、そのときの私の身長は百五十三センチ。しかし、「先生はアタッカーを決めようとしているんだ!」とぴんときた私は二センチも足りないのに列に加わった。嘘がばれるのは怖かったが、どうしてもアタッカーになりたかったのだ。
私の読みは当たっており、ほかの人たちはセッターかレシーバーになった。私はというと、身長不足は先生の目には明らかだったはずなのに、なぜか見逃してもらえた。
私はそれに感謝して、なによりうれしくて、ますます練習に精を出した。そうしたら、跳んだりはねたりしているうちにぐんぐん背が伸び、卒業時には百六十三センチになっていた。
両親も妹も長身ではないのに自分がこうして伸びたから、私は成長期にバレーやバスケをするとかなりの確率で“予定”より背が伸びるのではないかと思っている。

もうひとつよく覚えていることがある。
家が近所で、小学生のときから一番の仲良しだった女の子がいた。バレー部にも一緒に入ったのだが、一年生のときからすでに百六十五センチあった彼女は誰よりも早くレギュラーの座を獲得し、その後エースになった。
しかし、彼女にはときどき奇妙なことが起こった。突然目がうつろになり、すべての動作が停止してしまうのである。
考えごとをしていてちょっとトリップした、というようなものではない。たとえば息の詰まるようなラリーの最中、トスがあげられたのに彼女はジャンプもせず放心状態……ということが何度もあった。公式試合のラインズマンをしているときにそれが起き、サーブのイン・アウトの判定ができなくて審判をしていたよその学校の先生にものすごく怒られたこともあった。
そういうときはどんなに大声で呼びかけても目の前で手を振っても反応がないため、頬を何度も強く叩いて目覚めさせるしかない。ほうっておいたらネットをくぐって相手コートを通り、どこまでも歩いて行ってしまうのだ。そして覚醒したときはいつも本人はきょとんとして、なぜ自分の周囲に人が集まっているのかまったくわかっていない様子だった。

高校は別だったのでそんなこともすっかり忘れていたある日、新聞の健康相談欄を読んで驚いた。小学生の息子がこれこれこんな状態になることがあるのだが大丈夫だろうか、と書かれてある内容が彼女のそれとそっくりだったのだ。
回答を読んだ記憶がないのでなんだったのかはわからないままなのだが、緊張状態にあるときによくそうなっていたので、ストレスの表れ方のひとつだったのかもしれない。

* * * * *

人生を振り返って、あのときはがんばったよなあと真っ先に思い浮かべるのは中学・高校の部活である。大人になって要領というものを身につけたらすっかり踏ん張りがきかなくなってしまったけれど、スポーツ選手を見ているとひたむきだった頃の自分を思い出してちょっぴりじんとくる。
残りの期間、めいいっぱい応援しようっと。