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2006年07月12日(水) 痴漢

同僚とお昼を食べながら、彼女の娘が通う小学校の話になった。
こういうご時世なので保護者宛てに不審者情報のプリントが配られることがあるのだが、先日子どもが持ち帰ったそれは「『鉄棒を教えて』と言って子どもに近づいてくる男がいるので、注意してください」という内容だったという。
その男は低学年の女の子に「スカート回り、できる?」と尋ね、それをしてみせるのを携帯のカメラで撮影していたらしい。帰宅した子どもが「今日公園にこんなおじさんがいてねー」と無邪気に話すのを聞いた親が慌てて学校に連絡を入れたのだ。
スカート回りというのはスカートを鉄棒に巻きつけて回転する技で、私もそのむかし何度スカートをビリッとやったかしれない。これをやるとパンツが丸見えになるのだが、二年生や三年生だとまだそういうことは気にならない。
「すごいねって褒められたら、子どもは得意になってぐるんぐるんやるやん?それをじーっと見てたんやろな」

この話を聞いて、私は本当に胸が悪くなった。嫌な記憶がよみがえってきたからだ。
五年生くらいのとき、近所のおじさんが空き地で犬を遊ばせているのを見かけた。私は犬が大好きだったので近寄って行ってじゃれていたら、ふとした拍子に犬の頭がスカートの中に入ってしまった。
びっくりしてすぐに犬から離れたが、そのときおじさんに言われたことを私は二十年以上たったいまも忘れない。ここにも書けないほど卑猥なことを十歳の女の子に言ったのだ。
恥ずかしくて、情けなくて、親には言えなかった。それ以後、おじさんの家の前は小走りで通るようになった。

直接からだを触られたわけではない。しかし、「視線」や「言葉」でもそうされたときと同じおぞましさは味わうのだ。


先日泉麻人さんのエッセイを読んでいて、本当に驚いた。いや、大きな違和感というべきか。
酒席に若い女性がいると八割の確率で痴漢の体験談が話題にのぼるが、そのとき彼女たちは「もー、イヤンなっちゃう」と眉間にしわを寄せながらも、どことなくうれしそうに見える。「痴漢に遭う私=いい女」という一種の“勲章”のような意識があるに違いない------というようなことが書いてあったからだ。

二十二のとき、私は通勤に阪急電車の京都線を利用していた。特急の車両は進行方向に向かって二人掛けのシートが二列、ずらりと並ぶつくりになっている。そして大宮駅から十三駅の間は三十分以上ノンストップ。
その帰りの電車でしばしば痴漢に遭った。私だけではない。停車駅はまだ先なのに女性が突然立ち上がり、車両を移るのを見るたび、「ああ、またか」と思った。
相手は通路側の席に座り、足を組んだり荷物を床に置いたりして逃げ道をふさぐ。満員電車でどこからともなく手が伸びてくるのもぞっとするが、他人の視線が遮られた空間でそういう事態になるともう悲惨である。怒りと恐怖で車掌に通報したこともある。

しかしそのような経験を、泉さんの目に「得意気に」「うれしくてしょうがない、ように見える」ように語る女性が「よくいる」なんて……。
以前、ここで鉄道会社の女性専用車両の設置について賛否を問うアンケートをしたとき、回答の中に「痴漢は程度の軽いレイプだ」という意見があった。同感である。
それは「やだー、ナンパされちゃった(声をかけられる=私も捨てたもんじゃないわね)」という話ではないのだ。その男にとって「衝動」と「チャンス」が揃ったところに自分が居合わせてしまった、という不運以外の何物でもない。
……と思うのだが、女性にもいろいろいるみたいだ。

* * * * *

それにしてもあまり愉快な話ではない。
それを武勇伝かなにかのように得得と話す女性がいるうちは痴漢が減ることはないだろう。彼らにこんなやばいことはやめておこうと思わせるのは、厳罰化より女性の「ぜったい許さない」という意識なのだから。

「それは犯罪なのだ」
「自分は被害を受けたのだ」
それを当人がまともに認識していなくてどうする。
もう、スカート回りでパンツを見せても平気だったあの頃ではないというのに。