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2006年05月24日(水) 誰が読んでいるかわからないから(後編)

前編中編からどうぞ。

先日、私は「すごい話を聞いちゃった」というテキストを書いた。街で信号待ちをしているときに偶然耳にした話について書いたものである(未読の方はこちらを読んでね)。
これにはあちこちからかなりの反響があったのだが、そのうちのいくつかのサイトを読みに行って私はため息をついてしまった。銀行名を突き止めようとしたり2ちゃんねるの該当スレを探し出そうとしたりする人がいたからである。
その点に異常な執着を見せる人はいるだろうなとは思っていたが、やっぱりか……。思わずつぶやく。
「そんなもの、調べればわかるようになんて書くわけないじゃない」
その銀行にはべつになんの義理もないけれど、かなり格好の悪い話である。たとえ読み手のうちのごく一部にであっても、その名を公表するようなことになるのは望むところではない。
そして私が「書く」において注意していることのひとつが、これ。こういう場面で「固有名詞を特定されないようにすること」だ。

私は身近な誰か、あるいは何事かをクローズアップして書くとき、必要と思えば徹底的に設定を変更する。場所や状況、ときには登場人物の性別も変える。さらに念を入れ、何ヶ月も経ってから話題にすることもある。
けれど、「日記なのに事実をありのままに、またはタイムリーに書けないこと」に対するジレンマはまったくない。そこはどんな人が目にするともしれない場所なのである。あったことを寸分違わず再現することより、自分に書かれたことによって誰かが迷惑を被るリスクを下げることのほうが優先順位ははるかに上だ。
そのことを不自由に感じることはない。事象を一から十まで正確に記述しなければ読み手に伝えられないことというのはそれほど多くないから。
たとえば、「すごい話を聞いちゃった」に届いたメッセージのほとんどが「他人事ではない。一歩間違えたら自分もやってしまいそう」「『壁に耳あり障子に目あり』ですね」といった内容のものであったが、それらは「交差点で信号待ち中」「銀行」「若いサラリーマン」「大阪府下」という要素の組み合わせに導き出されたわけではない。
もしかしたら本当は、大声でぺらぺらやっていたのはメーカー勤務の女子社員で、それを聴取したのは喫茶店でお昼を食べているときだったかもしれない。しかしたとえそうでも、読み手の感想は変わらないだろう。ディテールを変えても、主題である「誰が聞いているかわからないのだから、外で話すときは気をつけなくては」はきちんと伝えることができるのである。
そして、私はそれ------出来事そのものでなく、それを通じて私がなにを感じたか、考えたか------が伝わりさえすればいい。
そりゃあ足したり引いたりせずに書いた上で伝えたいことを伝えられるのが一番ではあるが、web日記でそれを望むのはむずかしいこともある。

誰が見ているかわからない場所で書くための決め事のもうひとつは、「自分が誰であるかを明かさないこと」。
以前、「食事に行ったという話を書くときは、そのレストランが地元以外の場所にもあることを確かめてから店名を出す」「自分の誕生日ネタは書かない」という方がいたけれど、そのくらい用心深くてちょうどいい気がする。自分を守るためだけではない。安全なところに身を置いて書くのは日記書きの責務である、と私は思っている。
本名でサイトをやっている人はほとんどいないと思うが、たとえばもしプロフィールに顔写真を載せていたら……。実生活の書き手を知る誰かが偶然サイトを訪問したとき、文章だけなら気づかず通り過ぎていくところが「えー!○子ちゃんじゃない!」となる。
自分はその覚悟ができているかもしれない。しかし、「日記」には家族や友人、同僚などたくさんの身近な人を登場させてきただろう。自分の身元が割れることによってそういう人たちが誰かまで芋づる式に判明してしまう場合があるのだ。
「経験」は自分のもの。彼らとのやりとりを書くことはもちろん咎められることではないが、そのことは心に留めておく必要があるのではないだろうか。
「(顔を)出すなら、(周囲の人のことを)書かない。書くなら、出さない」
とつまらない標語を思い浮かべる私である。

それでも万が一のことを考え、そのとき友情にひびが入ったり職場にいづらくなったり結婚生活が破綻したりしかねない話については、「書かない」。
結局、これに勝る安全策はないのである。
(あー、結婚生活が破綻うんぬんというのはもちろん言葉のあやというやつです)