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2006年04月21日(金) 「日常」の喪失

「仙台に来ることあったら連絡してな。ぜったい会おうね」

メールアドレスを書いた紙を渡され、涙ぐみそうになった。今週末で一番の仲良しの同僚が退職するのだ。夫の転勤についていくためである。
ほんの一週間前、異常に厳しい会社の服装規定について愚痴を言い合った後、「私たち、いつまでここにいるんだろ」「来年も同じこと言ってそうやない?」なんて話していたのに……。

しゅんとしながら家に帰る途中、友人から電話が入った。
「まっすぐ帰ってもどうせ暇やろ。梅田までおいでよ」
晩ごはんのお誘いだ。暇なんかではないけれど、人恋しい気分だったのでいそいそと出かけて行った。
注文の皿が届くなり、彼女が言う。
「私、東京行くかもしれん」
「ふうん、いつ?お金払うから、舟和の芋ようかん買ってきてよ」
「出張ちゃうで。今日、上司に呼ばれて言われてん。いま私がやってる仕事が東京本社で一本化されることになったから、それに伴ってあっちに行くか大阪に残って部署を異動するか、どっちか選べって」

ええーー!思わず箸を取り落とす。
彼女が、転勤……。
全国に支社があるのは知っていたし、私が独身時代に勤めていた会社でも女性の転勤は当たり前にあった。しかし、彼女がいる風景は私にとってあまりにも日常だったため、彼女がそうなるとは想像したことがなかった。つい何日か前も、大学を卒業してから十二年間住んでいるいまのワンルームマンションに払った家賃が軽く一千万を超えていることに気づいて愕然としている彼女を「五十になってもそこに住んでたりしてネ」とからかったばかりなのだ。
こうして気軽に会っては他愛もない話をする。そんな日々がこれから先もずっと続くような気がしていた。……いや、そうでなくなる日が来るなんて思ってもみなかった、と言ったほうが正しい。

つくづく思った。
自分がいま享受している心地よい環境、状況。それはどんなに安定しているかのように思われても、実はいくつもの偶然や幸運が組み合わさった結果の産物であり、いつ失われたり変化したりしても不思議はないのだ、と。
彼女が東京に行っても友情は変わらない。しかし、私の生活は少なからず変わる。仕事帰りに待ち合わせをして飲みに行ったり、冬になるとうちで鍋パーティーをしたりといった十数年間当たり前に繰り返してきたことが、彼女が転勤を承諾した瞬間に「当たり前」でなくなるのである。

考えてみれば、そういうことは他にいくらでもある。
たとえば、私は週三回決まった曜日の決まった時間帯に日記を更新するということを何年も続けている。「日記書き」はすでに、夕食の支度をしたりお風呂に入ったりするのと同じように私の一日の時間割に組み込まれている。
が、これも夫が部署を異動になり毎日帰宅できるようになったら(結婚当初から夫は月曜に家を出たら金曜まで帰ってこない出張だらけの人なのだ)、とたんに不可能になる。私は夫が留守にしているか寝ているときにしかパソコンに触らないから、これまでのようなペースで更新することもすべてのメールの返信することもとても無理。
そうなったら、私の性格からして「中途半端にしかできないならやめちゃえ」となるかもしれない。大事にしてきた読み手の人とのつながりも一瞬にして消滅する。

どんなことでも終わりはある日突然やってくる。いま私が「日常」と思っているものは絶妙なバランスの上に成り立っていて、けっこうあっさり、そうでなくなってしまうことがあるのだ。
いままでがそうだったからこれからも……というのは錯覚だったのである。


別れ際、
「東京もいいかもしれない。若いうちに住むんやったらおもしろそうなとこやし、前向きに考える」
と言っていた友人。返事の期限ってたしか今日って言ってたな……と思っていたら、メールが届いた。

「結局、大阪に残ることにしました」

よかったあ……。心の底から安堵する。でもどうしてだろう?
彼女に電話をしたら、「片道切符かもしれんって思ったら、実家がいま以上に遠くなるのが不安で。親も年とってきたしね」ということだった。
「これで東京に遊びに行ったときの宿ができたと思ったのにサ」
私も意外と天の邪鬼だ。

明日が今日と変わらぬ日であることが、私にとって望ましいことかどうかはわからない。
でもとりあえず、私は自分の「今日」を気に入っている。もうしばらくはいま手にしている日常が続くことを願っている。