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2006年02月20日(月) 友が友でなくなるとき

実家の居間のテーブルに見慣れない雑誌を見つけた。
「『ゆうゆう』?読んだことないなあ」
と手に取るとそれもそのはず、「五十代以上の女性のこれからを応援する」がテーマの月刊誌であった。
しかしぱらぱらやってみたところ、私の愛読誌『婦人公論』と趣きが似ている。半世紀生きてきた人をターゲットにしているだけあって著名人のインタビュー記事や読者の手記には重みがあるし、私には二十年早いはずなのにどういうわけか、取り上げられているトピックが私の関心事とかなりかぶっているのである。

「今度からこれ、捨てないで取っておいて。帰ってきたときに読むから」
「それはいいけど、あんたがそれを面白いと感じるっていうのはどうなのよ……」
母に複雑な顔をされてしまった。


さて、私が読んだ号の中に「同性の友人との付き合いについて考える」という特集があった。
「老後は長く、夫だけでは心許ない。五十代以降の人生に友人はなくてはならない存在です」
というわけで、友人といい関係を保ち続けるための十か条が書いてある。
たとえば、「お金の貸し借りはしない」「詮索せず、依存しすぎず」「互いに高め合える存在になる」といったことであるが、「何年もお金を返してもらえず、付き合いをやめた」「立ち入り過ぎたため、相手が離れていってしまった」などの読者の失敗談を読みながら、私にもいくつか思い浮かべる“心得”がある。

ひとつは、「秘密を守る」ということ。
悩みの相談や打ち明け話を他言しないのは友人として当然のルールだと思うのだが、ぺらっとしゃべってしまう人がいるのだ。
大学一回生のとき、私は同じサークルの男性と付き合いはじめたことを同期のごく一部にしか話していなかった。照れくさいから隠そうとしたのではなく、彼が会長という立場にある間は公私混同という目で見られぬようにと考えてのことだったのだが、打ち上げの席でいともあっさりばらされた。
先輩も後輩も入り混じったテーブルで何かの拍子に彼の名が挙がったときに、友人が「○○さんのことなら小町ちゃんに訊かなきゃ。ねーえ?」と冗談めかして言ったのだ。「えっ、なにそれ、どういうこと」とたちまちみなに追求され、もはやごまかすことはできなかった。
まだ人には話さないでって言ったのに!と後で文句を言ったら、彼女は「めでたいことなんだから、いいじゃない」とまったく悪びれない。それ以後、私は彼女に広まっても支障のない話しかしないようになった。そして、彼女が「ぜったい内緒よ」と前置きして誰かから聞いた“ここだけの話”をみなの前で披露するたび、私の中で彼女は遠くなっていった。
残念なことだけれど、ものすごく気は合うのに「おしゃべり」という一点のために全面的な信頼を置くことができず、友人になりきれない人というのはときどきいる。

もうひとつは、「友人という関係を“利用”しない」ということだ。
学生時代の友人からアムウェイのセミナーに参加してほしいと熱心に口説かれた時期がある。ふつうの会話をしていても、いつも途中からそちらの方向に話を持って行かれてしまう。一緒にいると楽しい女性だったけれど、会社に電話をかけてこられたときはさすがに距離を置こうと思った。
「聖教新聞を取って」とかなりしつこく同僚に頼まれたこともあるが、こういうことをされると縁を切るまでには至らなくても確実に失望する。表面上はこれまでと変わらぬ素振りで接しても、「そういうつもりで私と仲良くなったのだろうか」「こじれたときは関係を失っても惜しくないと思っていたのね」という思いを拭うことができず、無邪気さを取り戻すことはできない。

しかし、“友人を利用しない”には「勧誘をするな」以外にもうひとつ意味がある。「愚痴を聞かせるだけの相手にしない」ということだ。
聞く側は最初の何回かは親身になって慰めたり励ましたり、「それは大変だね」と相槌を打ったりすることができるが、頻繁かつ延々と続くそれには次第にうんざりしてくる。
「私は彼女の愚痴のはきだめなのか?」
彼女からの電話やメールにどきっとするようになってしまったら、友人とはもう呼べない。


だまされた、恋人をとられた、といった派手な“裏切り”がなくても、培ってきたものが壊れてしまうことはあるのだ。
親友と違い、友人というのは生活の変化とともに移り変わったり自然淘汰されたりするものではあるが、こういう失敗で誰かを失うということだけはすまい……。

「結婚式の招待状の返事を返してくれない子がいる」とやきもきしている同僚の隣りで、そんなことを考えた。