| 2005年10月26日(水) |
文章のトレース(後編) |
※ 前編はこちら。
こういう状況に置かれたとき、人はどう対処するのだろう。
私は素通りできなかった。一読者として自分はどう行動すべきなのかを考えずにいられなかった。
Bの作者は私がどうすることを望むのだろうか。もし後になってこういうことがあったと知ったら、なんと言うだろう。Aの作者に忠告してほしかったと言うのか、そんなのは放っておけばいいと笑うのか、それともとにかく自分に知らせてほしかったと思うのか……。
いくら考えてもわからなかった。
そうかといって、看過することはできそうになかった。
Aの作者があまりに堂々と、しかも大量にBのログを“活用”しているので、
「もしかしてBの作者が名前や年齢、性別といった設定を変えて、別人のサイトとして運営しているのだろうか」
なんてことさえ頭をよぎった。ほんの一瞬とはいえ、そんな馬鹿げた可能性を思い浮かべてしまったくらい、あからさまだったのだ。
自分のすることが「出すぎた真似」になるのは怖い。しかし、何事もなかったかのようにこの場を立ち去るのがBの読者として誠意ある行動なのだろうか……。
意味なく起こる出来事はひとつもない、どんなことも起こるべくして起こるのだ、と信じている。
ロボット避けのタグで検索に引っ掛からないようにしてある、私が知るテキストリンク集に登録もない、誰かのリンクページに載っているのを見たこともない。私がAというサイトに遭遇する可能性などないも等しいはずなのである。
もしここを黙って通り過ぎるのが正しい選択であるとするならば、いったいなんのために“奇跡のようなめぐり合わせ”が起きたというのだろう。
ただいたずらにそれを発見して、嫌な気分を味わうために?そんな馬鹿な。
「私になんとかしろという天の采配ではないか」
そう私が考えたとしても、それほど突飛なことではないと思う。
しかし、悩んで悩んで悩み抜いた末、私はAの作者にもBの作者にも働きかけをしなかった。
私がBの作者の立場だったら、知らせてもらいたい。うちの畑でとれた作物をこっそり引っこ抜いて「自分が作りました」という顔をしてよそで売っている人がいたら、放っておくことはできない。その事実を知ることでものすごく不愉快な思いをするだろうが、覚悟の上だ。
しかし、人にその気分を味わわせる勇気は……持てなかった。
なにをありがたい、親切と感じるかは人によって違う。
「お宅の野菜がどこそこで売られてるわよ」と教えられ、「よくぞ知らせてくれた!」と相手方に乗り込んで行く人ばかりではないだろう。唇を噛みつつも事を荒立てまいとする人もきっと少なくない。そういう人にとってそんな情報を耳に入れられるのはいらぬおせっかいでしかないに違いない。日記を読むかぎり、Bの作者が前者のタイプであるとは思えなかった。
また、私がAに対してなにかアクションを起こすことで迷惑をかけることがあっては、という危惧もあった。
そのときはそれがもっともよかれと思えた選択だったのだ。
しかしその一方で、結果的に「見て見ぬふり」を選んだ自分は薄情者でなかったか、とも思い……。余計なお世話だと思われるのを恐れ、もっともらしい理由を作りだして無難なチョイスに自分を導いたのではないのか、と自問すると、完全否定することはできない。
「あれでよかったんだ」とは思えない。「ああしていればよかった」とも思わない。Aは現在休止中、ログもすべて削除されているが、私はいまだに自分の“正解”を探しつづけているような気がする。