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2004年10月04日(月) それが、愛情。

数日前の新聞の投書欄で、小学生の子どもを持つ四十歳の女性が書いたこんな文章を読んだ。

子どもの運動会を見に出かけたら、徒競走が一年生と六年生にしかなかった。不思議に思い担任に尋ねたところ、「時間短縮のため」という答え。私自身、子どもの頃は走るのが苦手で「これがなければ……」と思っていたが、本当になくなるとは。綱引きや大玉転がし、創作ダンスなどは全学年で行われていた。
徒競走をなくし、創作ダンスなどに力を入れるようになるとは、子供たちの頑張りどころも親の見どころも変わってきているなと思った。


私が子どもの頃、徒競走は運動会に欠かせない花形競技だった。が、それがなくなったという内容にもそれほど驚かなかったのは、これまでにも小学生の子どもの母親である友人や同僚から似たような話を聞かされていたからである。
プログラムから騎馬戦や棒倒しといった荒々しい競技が消え、組体操の型の中から人間ピラミッドがなくなった。理由は言うまでもない。
が、まだこれらについては「いまどきらしい」という意味で理解することができる。私がどうしてもわからないのは、徒競走が男女混合だったりクラス対抗リレーを選抜メンバーでなく全員で走る理由だ。
「ジェンダーフリー……だっけ?いまは名簿も男女混合が当たり前になってるしね」
「リレーに出られる子と出られない子をつくらないように、ってことなんでしょ」
と彼女たちは言うが、本当にそれが理由だとしたら、首を傾げざるを得ない。いったいこれのどこが“平等”なのだ?
徒競走に順位をつけない小学校があるという話は、多くの人が耳にしたことがあるだろう。同僚の子どもが通う学校ではこの“配慮”に加え、タイムの近い子同士で走るよう組まれているという。
私たちの頃は、ゴールテープを切った子どもは「一着」と書かれた旗のところに案内された。放送委員に名前を読みあげられる晴れがましさ、クラスメイトの元に戻ったときの照れくささをいまでも覚えているという人は少なくないのではないか。
「勉強は苦手だけど、運動は得意」という子どもはいつの時代にも、どこのクラスにもいる。私たちの頃はそんな彼らが運動会でスターになったが、いまこういう子どもの活躍の場はどこにあるのだろうか。
学校はきっとこう言うだろう。
「運動会の目的は運動能力の優劣をつけることではない」
「足の遅い子どもに劣等感を植えつけないように」
東京都教育庁も徒競走に順位をつけない学校が増えていることについて、「どんなに努力しても最下位になる子どもがいる。それはかわいそうだということなのでしょう」とコメントしている。
ああ、そうじゃないだろうとつぶやく。子どもたちがこの先もずっと競争のない「頑張ったから、みんな一等賞」の世界で生きられるのならそれもよい。しかし、そう遠くない未来に「一生懸命やりました」だけではなんの評価もされない実力勝負の社会に出て行かなくてはならないのである。
必要なのは、彼らを刺激やストレスから隔離することでも、負けぬよう傷つかぬよう庇護することでもない。「順位」というものがあるからこそ認識できる現実がある。自分の実力、他者との差を知り、敗北感に打ちのめされることもあるだろう。しかし、負けん気や根性といったものが「なにくそ」という感情を味わうことなしに培われることはないのだ。
負けることはだめなことでも恥ずかしいことでもないのだと教え、少々の困難にはめげないたくましさ、コンプレックスとうまく付き合える器用さを彼らの中に育ててやる------ゆとり教育が目指す「生きる力の育成」とはそういうことではないのか。
できる子のあたまを押さえつけ、無理やり「みんな一律」にする。これを悪平等と言わずしてなんと言う?
勉強が得意な子もいれば、走りなら誰にも負けないという子もいる。それが個性というもの。多様な尺度を用意して、それぞれの能力や実力を正当に評価する場を与えてこそ、真の平等といえるはずだ。

最近は運動会の日も給食のある学校がめずらしくないと聞く。昼食の時間になると子どもたちは親を校庭に残し、教室に戻って給食を食べる。家族が応援に来られない子どもへの配慮とのだが、私はこれも「ビリの子がかわいそうだから、順位はなし」と同じところからきている発想だと思う。
この世ははじめから公平でなどない。足の速い子、遅い子がいるように、容姿に恵まれた者、そうでない者、仲の良い両親の元に生まれた者、そうでない者、体の丈夫な者、そうでない者がいる。そういった差異が存在するのが現実であり、私たちにはどうしようもないことなのだ。
しかし、その“どうしようもないこと”を隠したり目立たぬようにしたりすることが思いやりや優しさなのではない。
「神様は不公平だ」と嘆いているのではなく、ありのままを受け入れた上で、じゃあ自分にはなにができるのか、どう生きていくのかを考えられる強い子になれ------そう導いてやるのが教育者のもっとも大切な仕事のひとつではないか。
「じゃあ、お昼は同級生のお母さんたちとお弁当食べたん?」
「ううん、いっぺん家帰った。一緒に食べるほど仲いい人もおらんし、だんなとふたりで校庭で食べてもしゃあないし。そういう親ってけっこういると思うよ」
たしかに運動会の風景は様変わりしていそうだ。 (「追記」はこちら

【あとがき】
「順位」があるからこそ認識できる現実がある。ちょっと話は変わるけど、友人の子どもの小学校の通知表は全学年二段階評定だそうです。私の通知表は四年生までは「よい・ふつう・もう少し」、五年生からは「5・4・3・2・1」だったけど……。六年生になっても「できました」「努力しましょう」で子どもの学力の程度がわかるのかと尋ねると、「わかるわけない」との答え。そりゃあそうでしょうな。