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2004年08月20日(金) スイス旅行記(後編)

ユングフラウ鉄道に乗って見に行ったヨーロッパ最長のアレッチ氷河、「アルプスの少女ハイジ」が生まれた村でのハイキング、グリュイエールでのチーズ製造の実演見学。どれも甲乙つけがたいスイスの旅のひとコマだが、さらに忘れがたい記憶となるであろうのは、ツェルマットから見たマッターホルン(四四七八メートル)だ。
ロープウェーを乗り継いでクライン・マッターホルンの頂上(三八八三メートル)に立ち、マッターホルンを眼前にしたとき、鳥肌が立った。
「神の山……」
中世には悪魔が棲んでいると恐れられていたというのも頷ける。アルピニストの聖地と呼ばれるツェルマットの村、その奥に鎮座するその山はアルプスの明峰の中でもっとも荒々しく冷酷で、そして圧倒的に美しかった。
この話をご存知だろうか。スイスとイタリアの国境上にそびえるマッターホルン。一八六五年七月、二つのパーティーが国の威信をかけてその初登頂を競った。
ツェルマットからアタックしたイギリス人エドワード・ウィンパーの一行と、不利を承知で自国からのルートを選んだイタリア人ジャン・カレルの一行。先に頂上にたどり着いたのはウィンパー以下七名のイギリス隊だった。ウィンパーが頂上から下を覗くと、遥か下に尾根を登ってくるカレル隊が見えた。彼が岩を投げ落とすと、初登頂が叶わなかったことを知ったカレルたちは引き上げていった。
が、数時間後、悲劇が起こる。自分たちの成功を見せつけるような真似をした罰が下ったのだろうか、ウィンパーたちが下山をはじめて間もなく、前から二番目を歩いていた登山経験の浅いメンバーが足を滑らせたのだ。七人はザイルで結ばれていたが、悲鳴を聞いてとっさに踏ん張った後方のウィンパー、山岳ガイド二人とのあいだで切れ、前の四人が千二百メートル下の谷底に消えた------。

それは、山というより巨大な岩。ヤスリで磨きあげた矢じりのような稜線の峰々に囲まれ、足元には二つの氷河が横たわる。そして、自身は雪もつかぬほどの断崖絶壁。このまるで斧ですっぱりと切り落としたような北壁は、何者をも受け入れないという意志の表れのように私には見えた。多くの登山家の命を呑み込んできたこのピラミッドは、侵してはならない領域があること、人間は自然には敵わないことを私たちに教えようとしているのだろうか。そんなことを考えずにはいられなかった。
コンクリートとアスファルトの世界、すなわち自分たちが作ったもの、征服したものに囲まれて生活していたら、人はいつしか勘違いしてしまうようになるのかもしれない。「生かされている」という感覚を失うというか、人間もほかの動物と同じ、自然を間借りして生きている存在であるという「分」のようなものを忘れてしまうというか。
「神が山に姿を変えて下界を見ているのではないか」
マッターフィスパ川に架かる橋からその山を見つめながら、そんなことを考えた。
村の教会の隣りにマッターホルンで命を落とした登山家たちの墓地があった。墓碑に刻まれた生没年月日を見て、言葉を失う。十代、二十代がとても多い。そういえば初登頂を果たしながら下山途中最初に足を滑らせたハドウもたしか十八か十九だったな……。
八十年前にエベレストで遭難死したイギリス人登山家の言葉を思い出す。生前、ジョージ・マロリーはなぜエベレストに登るのかと訊かれ、こう答えている。
「そこに山があるから」
ここに眠る彼らも同じ気持ちだったのではないか。親や妻や子を思いながら、それでも「あの頂点に立ちたい」という気持ちを抑えることができなかった。あの神々しいまでの美しさに魅せられて。
きっと彼らは言うだろう、本望だと。マッターホルンのこんなにそばで眠ることができて幸せだと。
「だから、泣くことはない」
花の代わりにピッケルが飾られた墓の前で、私は唇に力を込めた。

【あとがき】
マッターホルンには「神」を感じさせるものがありました。ふもとの村から見ると頂きに雪をかぶっていてとても美しいのだけど、マッターホルンと向かい合う山の頂上から眼前にすると、その荒々しさというか寒々しさというかに鳥肌が立ちました。人間とは言うまでもなく、周囲の峰々(4000メートル級の山が29もある)のどれとも打ち解けない「孤高の巨人」という感じでした。
村の山岳博物館には「ちぎれたザイル」が展示されていたのですが、とても細くて、どうして登山経験も豊富な地元ガイドとウィンパーがこんなロープを採用したのだろうと思いました。生き残った三人には「故意にザイルを切ったのではないか」という疑いがかかり、査問委員会が開かれたそうです。