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2004年06月10日(木) 私たちに人が裁けるか(後編)

私が「国民の参加によって、公正でより納得のいく裁判を」を楽観視できないのは、この日本に「人を裁く」資質を持った人が無作為抽出が可能なほど大勢いるとはどうしても思えないからだ。
ひとつは、「一般人に事実認定能力があるのか」という疑問。
私たちが関わることになるのは法定刑に死刑か無期懲役を含む事件、あるいは故意の犯罪で人を死亡させた事件。つまり、重大な刑事事件について有罪か無罪か、刑罰の内容を判断しなくてはならないのだ。
その方法は裁判官三人と裁判員六人による多数決。それは一票の重さが職業裁判官のそれとまったく同じであることを意味する。
だから、私は恐ろしい。なんの訓練も受けていない人間にその証言が信用できるものであるかそうでないかを見分ける力があるだろうか。有罪者を見逃さず、無実の人を罰さない、そんなことが可能なのだろうか。
十二人の陪審員によって無実の罪でショーシャンク刑務所に送られたアンディ・デュフレーンを私たちは生み出さない、と言えるか。
イメージしてほしい。ある日、あなたの自宅に裁判所から一通の手紙が届く。開封して驚いた。
「このたび、あなたは和歌山・毒物カレー事件の公判の裁判員に選ばれました。つきましては○月○日に△△裁判所に出頭願います」
と書いてあるではないか。
あなたはもちろんその事件を知っている。「林真須美」という女性が近隣の住人ともめていたこと、彼女の自宅の台所の排水溝からヒ素反応が出たこと、夫やマージャン仲間に多額の保険金を掛けていたこと。彼女が笑みを浮かべながら報道陣にホースで水を浴びせたり、カメラを取りあげたりする姿をワイドショーで見、性格の異常性を感じたこともある。だから、逮捕されたときも「やっぱりな」とつぶやいたものだ。
しかし、その公判の裁判員に選ばれた。
さて、あなたはその先入観と偏見を一切消し去ることができるだろうか。ここまでさんざん「容疑者」が真犯人であることを前提とした報道に晒されてきたけれど、真っ白な心で彼女の「私はこの事件には関係しておりません」を聞くことができるだろうか。
そして、もうひとつの疑問。それは「私たちに量刑についての適正な判断が下せるのか」ということだ。
罪は法によってのみ裁かれねばならず、私情をはさむことは許されない。被害者の心情を汲んで刑を重くすることはできないのだ。しかし、それがどれほどむずかしいことであるか。
日本は義理人情の社会だと言われている。「加害者の人権が守られすぎている」という声は事件が起こるたびに聞かれるし、私たちが被害者やその家族の痛みに敏感で感情移入しやすいことは、以前「フォーカス」アンケートをしたときに実感した。
この「情の厚さ」は日本人の良さであるが、裁判員制度の施行においては不安材料になる。それは「感情に流されやすく、論理的思考を得意としない」と言い換えることができるからだ。
あるいは逆に。身代金目的の誘拐事件や放火殺人事件も対象になるため、極刑に値すると思われる事件の裁判員に当たる可能性がある。そのとき、私たちは毅然とその意思表示をすることができるだろうか。
金銭(罰金)や自由(懲役)ならまだしも、命を奪うことになる決断をする勇気を持てるか。そのプレッシャーは生半可なものではないだろう。千分の一でも百分の一でもない、「死をもって償うべし」とする九分の一を担う覚悟ができるか。あなたなら「損なわれた正義を回復する」という使命を果たすことができそうか。
感情でなく法で人を裁ける自信は、私にはない。ゆえに、自分が“素人”に裁かれることにも恐怖を感じる。
それに、「面倒くせえなあ、なんで俺がこんなこと」「早く終わらせて帰りたい」なんて考える人が裁判員に選ばれないとも限らないではないか。
主要八か国の中で、国民が司法に参加できない国は日本だけだという。
しかし、「国民性」という名の土壌がちがう。個性より協調が尊ばれ、みなと同じであることを求められる中で育ってきた私たちは自己主張が苦手だし、議論も下手だ。法意識も低い。
そんな、なんの基盤もないところに「外国でやっているのだから我々にもできるはずだ」とひょいと制度を持ってきて、はたしてうまく動作するのだろうか。
私はこれは日本人には向かない制度である気がしてならないのだ。

ところで、「和をもって尊しとなす」に当たる言葉は欧米にあるのだろうか。

【あとがき】
諸外国でもやっていることだというけれど、「そういう制度がある」と「あるべき姿で機能している」とはまったく違います。アメリカでは被告が陪審裁判か、(日本の裁判と同じ)職業裁判官による裁判かを選べるのですが、「無実なら陪審員を選べ、有罪なら裁判官を選べ」という言葉があるそうです。陪審員制度が後者で存在できているかどうかはかなり疑問です。