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2004年05月17日(月) 話すこと。話さないこと。(後編)

そのときになってみなければわからないことであるのは百も承知で、自分ならどう振る舞うだろうかと考えてみた。
重要な事柄について「もう人に話しても大丈夫」と自分にゴーサインを出すタイミングは、私の場合かなり遅い。結婚が決まったときも、知らせないでいることによる不都合を感じないうちから周囲に言い触らしたりはしなかった。妊娠しても、見た目に変化が表れる前から「ウフフ、実はね」とやることはおそらくない。
そしてもうひとつ、ほとんど確信しているのは、サイト上で“オメデタ報告”なんてことはまずしないだろうということだ。
照れくさいとかその必要を感じないとか、そんな理由ではない。「成果を披露するのは好きだが、過程(舞台裏)を見せるのは好きでない」という性分とも無関係ではないのだろうが、それ以上に、その事実はおいそれと人に話す気にはなれない事柄として自分の中に位置づけられるのではないかという気がするからだ。
本当に大事なことについては誰とも共有したくない、そういう存在が自分の中にあることすら秘密にしておきたいと考える----そういうところが私にはある。恋の思い出や頭の中にあるものを公開するのは惜しくもなんともないが、「妊娠」は私にとって本物のプライベート、唯一のシリアスになるのではないか。こればかりは日記のネタになどして手垢をつけたくないと考えそうだ。

結婚の報告を入籍の直前、あるいは事後にさらっと書いて済ませる日記書きさんがときどきいるが、ああいうのはスマートでよいなと思う。
「こういう系統の話は書かない」という“NGテーマ”を持っている書き手は少なくないだろうが、私を惹きつけるのはプライベート中のプライベートは読み手に明かさない、つまり「家でのその人」をイメージさせてくれない人だ(女性の日記書きさんにそういう人がいないのはどうしてだろう)。
「話すこと」と「話さないこと」の線引きがきっちり存在し、自身の露出をコントロールしていることが伝わってくる人には知性や色気を感じる。もっともっと知りたいのに、懐にまで入れてほしいのに、それが許されない感じ。その“どうにも越えられない一線”に私は身悶えするのだ。
そういう意味で、林真理子さんのエッセイは私の理想だ。彼女は妊娠中もそのことは明かさなかったし、出産後のエッセイにも娘のムの字も出てこない。「子どもは商売に使わない」というポリシーのもと、「最初で最後の出産記」という文章でファンに出産報告をして以降は、夫は登場させても子どもの話は一切しない。「母」の顔をまったく見せないのだ。
「既に面白いものがたくさんあるので、私が育児エッセイやそういう類のものを書く必要はないだろう。子育てを楽しみながら、外では何くわぬ顔をして生きていきたい」
という彼女の言葉に大きくうなづく。「何くわぬ顔」は日記しか書けない私に真似のできることではないけれど、そのスタンスには憧れる。“子どもとワンセット”になった自分が書いた文章なんていかにもつまらなそうだもの。
……とかなんとか言っておきながら、何年後かにここでマタニティ日記を書いていたら。「小町さんのウソツキ!」のそしりは甘んじて受けます。

【あとがき】
あくまで「子どもの可愛さや育児の大変さを知らない現時点では」でしかない考えですが、ネットの中では、ちょっと無理をしても「母」の顔を抑えて個人としての自分を見せることができたらすてきだなあ…なんてことを思っているのですよ。いまも私は「妻」の顔よりも「女」としての顔を見せたいと思いながら書いているのだけど、それと同じですね。子どもの存在を伏せて日記を書きつづけることは不可能だけど、いま、日記に夫が登場するくらいの頻度に抑えられたら上出来じゃないかな、なんて思います。