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2004年01月26日(月) 「0」と「1」の差

「テストで九十九点を取った人と百点を取った人がいるとすると、ふたりの差は単に一点っていうだけではないんだよ」
小学生の頃、母からこんな話をされたことがある。
え、「一点」以外の違いが存在するってどういうこと?意味がわからず訊き返した。
「百点の人はこの先もずっと満点を取りつづける(実力を持っている人である)可能性があるけど、九十九点の人はそうではない。わかる?」
まだピンときていない私の顔を見て、母はたとえ話を探した。
「ここにイチゴが五個ずつ入った皿がふたつある。一個残した人と全部食べた人。その一皿で見れば違いは一個だけど、もしもう一皿あったとしたら?四個しか食べなかった人はもう食べられないけど、全部食べた人はもしかしたらまた平らげるかもしれない。さらに一皿あったら、それも食べちゃうかもしれない」
ここまで聞いて、娘の顔がぱっと輝いた。その「1」は単なる一個の違いではなく、可能性が「尽きている(0)」か「まだ残っている(1)」かの違いでもある。うん、この差は大きい。
以来、私はいろいろな場面で、いま自分が置かれているこの状況はある事柄に対して0であるか1であるかということを考えるようになった。

私たちは一生のうちにいったいいくつの別れを経験するのだろう。
失恋や死によってもたらされるような大きな別れはそう度々訪れるものではないけれど、卒業や退職で一気に何十、いやそれ以上の数の知り合いと「これっきり」になってしまうことはちょくちょくある。もっとささやかなレベルの喪失となると、私たちはかなりの頻度で立ち会っているはずである。
先日、風太さんの『BOKUNCHI』を訪ねた私はもう少しでキーボードを涙浸しにしてしまうところであった。
一月二十四日付の「空家になったホームページ」というタイトルのテキストだ。大切なサイトを閉鎖という形で失った寂しさを書いたものであるが、私にも代わりのきかない存在があるから、気持ちは本当によくわかる。たとえいまが旬のサイトだとしても、何年もつづいているサイトだとしても、「明日も読める」という保証はどこにもないのだ。
以前、日記サイトの寿命について考えたことがある。そのとき私は「半数は立ち上げて二年持たない」と書き、実際にこの手の別れをしばしば味わっている。
「日記」というテキストの性格上、それと書き手を切り離すことはむずかしい。何度経験しても慣れることがないのは、こんなにもせつないのは、それが文章という「モノ」ではなく「人」との別れだからであろう。

同じ空の下に息づくあなたに心からありがとう。いつまでもお元気で。
そしていつかどこかでまた会いましょう。星の数ほど存在するHPの中で偶然に出会ったあの時のように……

1月24日付 「空家になったホームページ」


ああ、本当に。
だけど、私たちはそれが叶わないであろうことを知っている。またの偶然を望むにはこの空はあまりにも広すぎる。
「サイトが見つかりません」が表示されたとき。メールが宛先不明で舞い戻ってきたとき。私はいよいよ「0」を感じて、泣きたくなる。

※参照過去ログ 2003年8月6日付 「日記サイトの寿命

【あとがき】
「ホームページ」とはうまく言ったもので、更新の途絶えたサイトはまさに「空家」を髣髴させます。家屋は人が住んでいないと傷んでしまうというけれど、主を失い、来客のなくなったサイトも同じ。最終更新日は毎日確実に遠ざかり、何度訪ねてももう明かりが灯っていることはない。とてもとてもせつない情景です。