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2003年12月17日(水) そうだったんだ。(前編)

職場の同僚からちょっと怖い話を聞いた。
テレビを見ている夫に話しかけようとして彼の名を呼んだ……はずが、どうしたことか昔の恋人の名を口にしてしまった。その彼とは結婚後は連絡を取っていないし、とくに気持ちを残しているわけでもない。そのため、その名がふいに口をついてでてきたことに彼女自身とても驚いた。
が、夫はそれを信じなかった。彼女に携帯を投げつけ、「いますぐ架けろ!」。電話がつながるや夫は携帯をひったくり、相手に「どういうつもりだ!」と怒鳴った。いきなりの無礼な電話に元彼も怒り、彼女は申し訳なさと情けなさで半泣きになりながら事情を説明し、詫びたという。
これまでにも、彼女の過去をやたらと知りたがったり自分と出会う前の写真を捨てさせたりといった話を聞いていたため、この夫ならやりかねないなと戦慄する。
それにしても、あなたも昔の恋人の番号をいつまでもアドレス帳に残しておくなんてミスったね。
「いつか架けるかもと思って、残しておいたわけじゃないの。ただ、これを消去したらつながりが完全に切れてしまうんだって思ったら、なんか消せなくて。携帯の番号くらいなら許されるかなとも思ってたし……」
それを聞きながら、携帯というものがあるがために切りきることができない関係がこの世にはたくさんあるのではないかなあと考えてみたり。
その点、携帯を持たぬ私は過去の恋人とは音信不通になるのが常。実にさっぱりしたものである。

とは言うものの。思い出すことくらいはあるわけで。最近、学生時代につきあっていた男性について少しばかり真剣に考える機会があった。
先日名古屋を訪ねたときのこと。ひつまぶしを食べたあと、お茶をする場所を求めてひよこさん運転の車で栄に向かったのだが、後部座席で窓の外を眺めていた私は道路沿いの大きなビルに見覚えのあるマークを見つけ、息を呑んだ。
「ねえ、ここって○○駅あたり?」
「そうですよ」
私は大学を卒業した年の夏、思い出すといまでも胸がつまるくらいヘビーな失恋を経験している。同時に社会人になった同い年の彼の配属先は大阪ではなく名古屋だった。遠距離恋愛は長くは持たず、私は数えるほどしか彼のスーツ姿を見ることができなかったけれど、いつも左襟にそのマークがついていたのを覚えている。
そうか、ここだったんだ……。
「連絡、取らなかったな」
私は心の中でつぶやいた。
そんなの当たり前じゃないかと人は言うかもしれない。うん、まったくだ。別れてから九年も経っているし、私は結婚しているのだ。
しかし現実として、「既婚である」という事実や自覚だけでノスタルジアに起因する誘惑を苦もなくねじ伏せられる人がどれだけいるだろう。
たしかに私は彼と手軽にコンタクトを取るすべは持っていない。最後の音信は昨年の秋。「どうしていますか。このアドレス、まだ使っていますか」という短いメールが届き、署名には携帯の番号が書いてあったが、私はそのメールを捨ててしまった。アドレスもわからない。当時住んでいた独身寮にももういない。しかし、実家の電話番号はいまも覚えているし、会社のそれだってインターネットで調べれば三十秒で手に入るのだ。
にもかかわらず、私はどうして「今度そっちに行くの。食事でもしない?」と声をかけなかったのか。
私のことなど忘れているかもしれないとか、いまさら会ってどうするとか、それは後ろ暗いことだとか。それらも理由のひとつではある。
しかし、実家や会社に電話を架けるなんて真似を私にさせなかった最大の理由。それは「会いたくなかったから」だ。
そこまでするほど会いたいとは思わなかった、ではない。私の中の理性や良心が押しとどめた、でもない。まぎれもなく、私は彼に会いたくなかったのだ。(後編につづく)

【あとがき】
携帯の番号って「軽い」じゃないですか。自宅の電話は教えないけど、携帯なら初対面の人にでも教えられるってところがあるでしょ。存在としてはフリーアドレスみたいなものかな、なにかあったら変えることができるし……という気持ちがあるのでしょうね。昔の彼氏の携帯の番号をアドレス帳に残しておくことにそう後ろめたさは感じなかった、という彼女の言い分はなんとなく理解できます。