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2003年11月01日(土) 忘れないよ。

脚本家の内館牧子さんのエッセイの中に、愛車についての話があった。
彼女の車はいわゆるクラシックカーというやつで、クーラーもCDもパワーウィンドウもついていない。そのため誰も乗りたがらないのであるが、あるときなにも知らない友人を乗せたところ、「ねえねえ、ラジオのアンテナを手で引っぱる、これもあなたの美学なの?」などとさんざんバカにされてしまったのだそうだ。
彼女の中には「粋か、野暮か」という尺度があり、その思考、行動はつねに内館流の美学に貫かれている。私はそんなところを素敵だと思っているのだけれど、友人が「こんな不便な車に好き好んで乗るなんて!」と声をあげたくなった気持ちはとてもよくわかる。
なぜなら、わが家の車も旧車だから。夫の生まれ年と同じ四十七年式だから、かなり年季が入っている。クーラーだけはつけたものの、渋滞に巻き込まれるとすぐにスイッチを切られてしまうし、聴くことができるのはラジオだけ。窓はもちろん手でぐるぐるとやるタイプなのだが、逆輸入車のため高速道路やパーキングでのチケットの受け渡しは私の仕事。うとうとしているときに「料金所だよ」と揺り起こされ、普通の車にしてくれればいいのに……と思ったことは一度や二度ではない。
加えて、ミッションだから私は運転できないわ、二人乗りだわ。はっきり言って、快適性や便利さをわざととっぱらったような車である。
それがつい一週間前までの話。

外出しようとマンションの駐車場を横切る。わが家の駐車スペースで落ち葉がくるくると円を描いている。見慣れたあの車がない。
「そうか、もういないんだ……」
夫から車を買い替えることにしたと聞かされたのが数ヶ月前。何人かが見に訪れ、ほどなく買い手が決まった。そして先週末、彼はそれを新しい主に引き渡すため東京まで運転して行くことになった。
最後の朝、五年間ともに過ごしたその車を見送るため、私はマンションの前まで出た。それは深い緑色をしていて、磨くととてもきれいだった。姿は見るからにスポーツカーだが、なんだか上品な感じがした。お世辞にも乗り心地がよいとは言えなかったが、私はそこだけは悪くないなと思っていた。
夫がボンネットを開けてなにやらしているのを眺めていたら、遠出した帰り道、ラジエーターの水が漏ってきてサービスエリアで補充しながら這這の体で戻ってきたことがあったなあと思い出した。
そうそう、買ったばかりの頃、雨が車内に染み込んできて驚いたっけ。「車好きの人は泥で汚れるのがイヤとか言って、雨の日は車を出したがらないって聞くけど、うちはちゃんとした理由があって雨の日に乗れなかったんだ〜」と納得したのだった。
ミーティングに参加したこともあった。全国から同じ型の車が百数十台集まってきて長野を走ったときには道行く人を驚愕させたっけ。「ポンコツカー」と呼んでからかったこの車とは、意外とたくさんの風景を共有していたんだなあ……。
そっと屋根をなでて声をかける。
「いままでありがとね」
角を曲がる直前、夫がクラクションを鳴らした。この音を聞くのもこれが最後、と思ったらなにかがぽたっと地面に落ちた。

「最後に洗車して、ありがとうって言ったよ。さっき次のオーナーに渡してきた。お金のない若い人じゃないから、ちゃんとメンテナンスして大事に乗ってくれると思う」
夫が電話でそう言うのを聞きながら、そうだったんだと心の中でつぶやく。週末には必ず乗るというわけでもこまめに磨き立てるというわけでもなかった。でも、この人はあの車が本当に好きだったんだな。
翌日、新しい主となった人からメールが届いた。
「帰り道、給油の際にスタンドの方がきれいに乗っていると感心していました。子どもができて大人数で乗れる四駆やミニバンばかり乗り継いでいましたので、ようやく夢が叶ったという感じです。本当にありがとうございました」
そこのうちの子になれてよかったね。またかわいがってもらうんだよ。
そしてたまにでいいから、君のために買い手を選んだ、いまちょっぴり元気のない昨日までの主のことも思い出してやってくれるとうれしい。

【あとがき】
先日、南港で行われていたノスタルジックカーショーというのに行ったんですよ(旧車もクラシックカーとかノスタルジックカーとかいろんな呼び名があるのね)。カメラ小僧は見かけなかったけど、代わりにカメラおじさんが多数。夫に「今日はハイレグ水着のお姉さんいないね。私がそういう格好して車の横に立ってたら、みんな集まってくるかしら」と言ったら、「もちろん」と彼。「え、ほんとに!?」「うん、シャッター押して下さいって」だって。