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2003年08月01日(金) 振られ下手

午前七時ちょっと過ぎ、リビングの電話が鳴った。こんな早朝に誰だろうといぶかりながら受話器を取ると、大学時代の友人である。会社のそばまで行くからお昼を一緒に食べようとのお誘いだ。
あら、めずらしい。どういう風の吹き回し?と思ったが、とりあえず正午にビルの一階でと約束だけして受話器を置いた。
パスタを口に運びながら、彼女は「やっぱりあかんかったわ」と話しはじめた。かねてより思いを寄せていた職場の同僚に恋人がいることが判明したのだそうだ。つきあいはじめて間もないらしく、彼女は気持ちを伝えることも叶わぬままこの恋は終えるしかなさそうだ、としょんぼり。
「だから、今日はひとりでいたくなくって」
彼女はぽつりつぶやいた。

こういうときに誰かにそばにいてほしいという気持ちは痛いくらいよくわかる。ひとり暮らしをしていたとき、こんな体験をしたことがある。
いまにも日付が変わらんとする時刻に仕事から帰宅すると、五分も経たぬうちにチャイムが鳴った。
こんな時間に突然友人が訪ねてくるわけもない。ドアの覗き穴からおそるおそる様子を窺うと、若い女性がひとり立っていた。気味が悪いので無視しようと思ったが、しつこくチャイムが鳴らされる。しかたなくインターフォンに出てみたら、消え入りそうな声で「あの、ちょっと、出てきてもらえませんか……」と返ってきた。
「なんの御用でしょうか」
威嚇するつもりで、わざとぶっきらぼうに言う。
「ご、ごめんなさい。でも、あの、ちょっと出てきてください、お願いします……」
全身に鳥肌が立った。だって想像してみてほしい。深夜に見知らぬ女性がまるで自分の帰宅を待ちかまえていたかのようなタイミングで家にやってきて、表に出てきてくれと繰り返すのだ。あきらかにどこかおかしい。のこのこ出て行けるわけがないではないか。
不信感をあらわにしてどちらさまですかと尋ねると、「五○三号室に住む者です」と名乗った。あら、お向かいさんじゃないとちょっぴり安堵したのも束の間、インターフォンの向こうから嗚咽が聞こえてきたからびっくり。
私の言い方、そんなにきつかったかしらとあわててドアを開けると、同じくらい年齢の髪の長い女性が泣きながら立っていた。
私の顔を見るや堰を切ったようにおいおい泣きはじめ、わけがわからぬ私に「家に来てもらえませんか。どうしてもひとりでいられなくて……。お願いします、お願いします」と絞りだすように言った。
その場で事情を聞いたところ、彼に別れると言われてしまったがぜったいに嫌だ、でも彼はきっと戻らないだろう、いまひとりでいたら自分はなにをするかわからないから誰かに一緒にいてもらいたくて、ということだった。
彼女の行動は常軌を逸している。それに彼女の言うことが本当かどうかわからない。部屋にあがったとたん男がとびかかってきて監禁などされたら……がちらりとあたまをよぎったのは事実。
しかし、もし本当につらくてつらくて、言葉を交わしたこともない私に助けを求めてきたのだとしたら。そう思うと彼女を追い返すことはできず、「じゃあ行きます」と答えていた。
彼女の部屋もまた、まともではなかった。玄関にはポスターサイズに引き伸ばされ、額に入れられた彼の写真がドーン。室内には写真立てが所狭しと並び、家具にはふたりで撮ったプリクラがびっしり貼られていた。言葉は悪いが、「ヤバいな、これは……」と思った。
淹れてくれたお茶をいただきながら(なにか薬が入っていたらと不安だったため、ほとんど口をつけなかったが)、あちらに飛んだりこちらに飛んだりする話に相槌を打ち、初対面の人間にそんなことを話すかと引いてしまうほど生々しい話にも黙って耳を傾けた。
「この子ははじめから愛されてなどいない。彼にとって金づるに過ぎない」
と思いながら。空が白みかける頃、彼女の涙がとりあえず乾いたことを見届けて、私は部屋を後にした。

「でも、気持ちは伝えたほうがいいよ」
友人にそれだけを伝える。
万にひとつのチャンスに賭けるつもりで、ではない。ここでちゃんと振られておかないと、あとがつらいから。
スマートに去ること、きれいに別れることになんの価値があるだろう。そのときはもう、相手に迷惑をかけるんじゃないかとかうっとうしい女と思われるんじゃないかとか、そんなことは考えなくていい。それは誰の人生でもない、あなたの人生だ。
「やるだけやった」と思えない終わらせ方がどれだけ大きな後悔と無念を胸に残すか。どれだけ長いあいだ痛みを引きずらねばならなくなるか。それだけに怯えなさい。
私も振られ下手のままこの年まできたから、その苦しみは身に染みて知っている。振られるときにはやはり振られきっておかねばならない。そのときは死にたくなるくらいつらいけれど、自分のために。
いま、私はつくづくそう思うのよ。

【あとがき】
で、マンションを訪ねてきた彼女がどうなったかというと。それからまもなく私は引越しをしたのだけれど、三年後くらいに街でばったり再会。あれからしばらくして別れたとのことでした。「いまはよかったと思ってる」とすこし寂しげに笑っていました。そのとき、ずっと気にかかっていたことを聞いてみました。あの夜、なぜ見ず知らずの私のところに来たのか。
「私は小町さんのこと知ってたよ。いつも優しそうな彼氏と一緒で、この人なら話聞いてくれそうと思って」
思わずうるっときました。