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2003年06月05日(木) 誰かのために。

新聞を読みながら、涙が止まらなかった。二日未明に神戸で起きた火事で三人の消防士が殉職したことを伝える記事だ。
私は涙もろい人間だけれど、どんな事件でも事故でも、テレビで遺族の悲しみを目の当たりにしてもらい泣きすることはあっても、淡々と事実を述べるに留まる新聞記事で涙を流すことはそうはない。しかし、まだ少年の面影を残す男性の顔写真が三つ並んでいるのを見たら、涙が一気にあふれでた。
身内の中に同じ職業の者がいること、現場が私のよく知る場所であったこと。それらがふだん以上に感情移入させたのはたしかだが、もっとも私の胸を突いたのは「こんなに若い人の中にも見ず知らずの他人のために身の危険を顧みず、炎の中に飛び込める人がいたのだ」という事実。
三人はいずれも私より若かった。他にも十人の消防士が重軽傷を負っているが、そのうち八人が私と同年代、もしくは年下である。いっとき、いまどきの若者に嫌われる仕事として「きつい、汚い、危険」の3Kが挙げられていたことがあったが、いつ命を脅かされる事態に直面するやもしれぬ消防士という職業を志す若者もちゃんといたんだということに、あたまをガツンとやられたような気がした。
「勇敢」なんて言葉を思い出したのは、JR新大久保駅で線路に落ちた人を助けようとしてホームに飛び降りたふたりの男性が轢死した事故のニュースを聞いたとき以来かもしれない。
「尊敬する人は誰か」なんて質問をされても両親以外に思い浮かべることはできないが、「すごいと思う人」なら何人もいる。誰かの力になりたい、苦しんでいる人を救いたいという理由で職業を選んだ人たちだ。
高校三年のとき、一番仲の良かった友達に進路をどうするのかと尋ね、彼女が「看護婦になる。昔からの夢やねん」とあっさり言ったとき、私は愕然とした。「大学行ってサークル入って青春する」とでも返ってくるのだろうと思い込んでいたから、というのもある。が、本当にショックだったのは「困っている人を助けてあげたい」「誰かのために役に立ちたい」という気持ちを自分は持続させたことがなかったことに気づいたからだ。
そのことに引け目やコンプレックスを感じたというわけではない。しかし、三年間部活で苦楽をともにし、馬鹿をやり、自分と同じくらい何も考えていないにちがいないと思っていた彼女が「おばあちゃんが亡くなったとき、医療の道に進もうって決めてん」と明るく言うのを聞き、胸にぐっとくるものを感じたのだった。

梅田を歩いていると、そこかしこで緑色のジャンパーを着た若い人たちに出会う。
「○〇さんの命を救うアメリカでの心臓移植実現のために、どうか皆様の力をお貸しください!!」
街頭募金のボランティアが信号待ちをしている人たちにビラを配りながら、声をはりあげる。青に変われば、横断歩道の真ん中まで出て行って協力を呼びかける。
こういうとき、私はたいていなにがしかのお金を箱に入れる。お礼を言われるのがはずかしいので、信号が変わり歩き出すときにさっと入れて足早にその場を立ち去るのだが、背中に「ありがとうございましたー」を受けながら、いつも心がちょっぴり軽くなるのを感じる。
手術費用の足しになればという気持ちからであるのはたしかだが、私の数百円が病床の女性をアメリカに運ぶ力の一端になるなんて実感はほとんど湧かない。しかし、一日の終わりに疲れきったボランティアの人たちに「今日はよくやった。明日もがんばろう」と思わせる材料のひとつになれたら……という期待はある。彼らの励みになれれば、女性のアメリカ行きを少しでも早く実現させることに間接的に貢献することになるのではないか。
加えて、朝から晩まで街に立ち、声を枯らす彼らに対する感謝の気持ちのようなものも。自分ができないこと、やらないことを彼らが代わりにしてくれているような気がするのだ。
週末、友人とその場所を通ったときのこと。彼女が「そうそう、こないだ借りた千円返すわ」と言い、バッグから財布を取り出そうとした。
私は即座に「今じゃなくていいから!」と声をあげていた。その怒ったような口ぶりに友人は不思議そうな顔をしたが、募金箱を抱える人たちの前でそれとは無関係に財布を開くなんてあまりに無神経だ。
消防士や警察官、医者や弁護士にならなくても、こういう形で誰かを救うための小さな力になることはできる。街を歩けば私はまた募金をするし、近いうちに献血にも行こう。

【あとがき】
ボランティアや募金活動をしている人を見て、「所詮は自己満足でやってるんだ」という言う人がいますが、それのなにがいけないんだろうと思います。人間は神様じゃないのだから、「100%奉仕の精神で」「純粋に誰かのために」なんてことはできない。どんなことも最終的には「自分が気持ちよくなりたい」(充実感を味わいたい、相手の喜ぶ顔が見たい、必要とされていると感じたい、など)につながっている。でも、それが自然だし、あるべき姿とも思います。人生はあくまでも自分が主体。大切なのは他人との関わりの中でどう喜びを見出し、それを充実させていくかなのだから。自分以外の人間のために100%純粋な心で尽くすことができるなんて考えるほうが勘違い甚だしいと思います。