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2003年05月23日(金) 私にないものを持つ人たち

玄関のドアを開けると、リビングの電話が鳴っていた。部屋に転がり込み受話器を引っ掴むようにして出ると、以前派遣でお世話になった会社で机を並べていた女性だった。半年前に私がその職場を去るとき、連絡先の交換をしていたのだ。
「ひさしぶりやね。どうしてるかなあと思って」
電話の主が彼女だとわかったとき、私は少々驚いた。職場でこそそれなりに話したものの、プライベートなつきあいはまったくなかった。番号は教えたが、まさか本当に電話があるとは思っていなかったから、彼女が唐突に自分のことを思い出してくれたのが余計にうれしかった。
……のも束の間、残念ながらそういうわけではなかったのだとすぐに気づいた。互いの近況報告をひと通り済ませたところで、彼女が突然尋ねた。
「ところで話変わるんやけど、小町ちゃんとこはなに新聞取ってる?」
「うちは讀賣だけど」
彼女はふうんとつぶやいたあと、「なに、新聞屋でバイトでも始めたわけ?」とからかう私に切り出した。
「ねえ、セイキョウ新聞取る気ない?」
「生協新聞?」
「ちがうちがう、聖教新聞。知らない?創価学会の」
こういうシーンに出くわすたび、私の中にある種の感慨が湧き起こる。「こういうことを人に頼めるってすごいよなあ」というものだ。
皮肉のつもりはない。その行為の好ましい、好ましくないもこの際置いておく。学生時代の友人にアムウェイ・ビジネスを勧められたときもそうだったのだが、こういうとき、私は相手が電話をかけてきた理由にがっかりする一方で、自分にはとうていできない芸当を軽々とやってのけるその人たちに対して、「はー、すごいな」と思ってしまうのだ。
むかしから、私は人になにかを頼むというのがとても苦手だ。「出勤のシフトを変わってくれない?」とか「リンク張らせてもらっていいですか」といったレベルのことでさえ、声を掛けるのをかなりためらう。それはどうしても必要なことなのか、頼まずに済ませる方法はないものかと自問する。
断られるのが怖いのではない。相手に「断りづらいな。困ったな」と思わせることが嫌なのだ。
そのため、やむを得ず誰かに話を持ちかけねばならないときは、相手のための“逃げ道”を必ず用意する。
「もしあなたがだめでも、他にも当たれる人はいるから大丈夫よ」
「突然の話だもん、こっちも無理を承知でお願いしてるから、気を遣わないで」
自分が頼まれごとを断るのが下手だから、卑屈かなあと思いつつもそういった文句を添えずにはいられない。
こんな私にとって、「勧誘」なんてものは頼みごとの中でももっとも苦痛に感じる分野だ。見ず知らずの人間に対してでなく、友人や知人に働きかけねばならないとすればなおのこと。そういうことができる人たちは、「私にこんなこと頼まれたら困るだろうな」「あの人、こういうの嫌いかもしれない。迷惑かけたらどうしよう」と悩まないのだろうか。とても不思議だ。
いや、たとえ思っていたとしても、「騙されたと思ってとにかく使ってみてよ」「ほんといいから、一度話を聞きに来て」が結局言えてしまうのならば、彼女たちが私にはないものを持っていることは確かである。
ちなみに、私は人に悩みを相談するのも苦手。現実問題として、話したところでどうにかなるわけではないし、弱っている自分を見せたくないというのもある。しかし、さらに強い力で私を押し留めるのは「こんな陰気くさい話を聞かされても相手は困るだろうな」という思い。
聞いてもらうだけで気が晴れるということはあるのかもしれないが、所詮は一時的なもの。相手に対する「申し訳ないな」の気持ちをねじ伏せてまでそれを得ようとは思わない。
甘えたい気持ちより遠慮が勝利する。家族に対してさえそういうところがある私は根本的にみずくさい人間なのかもしれない。
「人になにかを頼む」と「相談を持ちかける」。この両者は私にとって同質のものである。

【あとがき】
セイキョウ新聞はどうしたかって?もちろん断りましたよ。ちょうど先月、毎日新聞から讀賣に変えたばかりだったので、それを理由に。本音は「宗教、興味ないから」だけど、言いづらい。宗教はその人のパーソナリティの一部でしょ。その人自身を否定するみたいになっちゃうから。アムウェイにしてもそうだけど、頼んできた人の気分を害さずに断るのはむずかしい。どうして頼まれる側の私がこんなに気を遣わなくちゃいけないの、と思うこともしばしばです。