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2003年04月28日(月) 過保護と便利が駆逐するもの

連休がはじまったばかりの空いた電車の中で、不思議な光景を見た。
向かいのシートに座っている乗客六人が六人とも、携帯電話を取り出してメールの読み書きをしていたのだ。その中にはカップルもいたのであるが、隣り合って座りながら黙ってそれぞれの携帯を見つめている。
いまさら「車内では電源を切れ」などと言いたいのではない。ただ、そこに並んでいるのは見ず知らずの人間のはずなのに、まるでコピーしたかのように同じ表情、同じポーズを取っているというのがとても奇妙だったのだ。
私が目にするたび軽くがっかりするのが、背を丸め指をせわしなく動かし一心不乱に携帯メールを打っている男性の姿。あえて「男性」としたのは、それに夢中になっているときの彼らはどういうわけか、同じことをしている女性の何倍も間が抜けて見えるから。
公園のベンチに腰かけ、緩んだ表情で携帯メールを読んでいる若いサラリーマン。そこに「明日、あなたの仕事はありますか?」とナレーションが入る……という人材派遣会社のCMがあるけれど、見るたび苦笑する。さきほども私の目の前で、メールを読みながら自転車をよろよろ運転していた若い男性が車両進入よけのポールにぶつかりそうになっていたが、口から飛び出しそうになった言葉は「大丈夫ですか」ではなく「もし人だったらどうするのよ」だ。

さて携帯メールといえば、ネットニュースでこんな記事を見た。

学生が授業中に携帯電話を使うことを禁止する学校が多い中、積極的に授業に活用している学校がある。広島国際大学の田村教授は「今はメールアドレスを交換することから学生生活が始まる時代。私の授業ではレポートもできるかぎりケータイで書いてもらってきた。いずれ入学試験もケータイで受ける時代が来るのではないか」と話す。


似たような話はしばしば耳にする。最近読んだ情報誌にも、関西大学や佛教大学で小テストや質疑応答に携帯電話を利用しているとあったし、いまや「授業に携帯電話」はそうめずらしい話ではないのかもしれない。
しかし、「ケータイなら学生が気軽に授業に参加してくるんじゃないかと思って」「彼らは面と向かっては言えなくても、文字でなら伝えられるんです」といった教授たちの発言を聞いて、私の口から出たのは「ふうん、過保護だなあ」である。
そこまでお膳立てしてやる必要があるのだろうか。「授業を受けるつもりのない学生は受けなくてよろしい。直接質問してこないということはうやむやにしておいても支障がないと判断しているということ。ほうっておいたらよい」ではだめなんだろうか。
私はお世辞にもまじめな学生とは言えなかったから、テスト前は人の倍苦労したものだ。講義ノートを買うのにお金も遣った。しかし、自分の選択の結果責任は自分が負う。来たるべきツケを見据えたうえで行動を決定する。大学生ともなれば当たり前ではないのだろうか。
質問をメールで受け付けるようにした関西大学の助教授が「教室では無反応でも、日に十通以上のメールが届く」と語っていたが、はたしてそれは成果なのか。彼らが社会に出たとき、会議で発言できず上司に意見できず、「メールでなら言えるんだけどね……」では使いものにならないのに。
学生が授業に興味を持てるよう工夫をこらす努力が教える側に必要なことに異論はないが、こういう形で彼らとの距離を縮めようというのは安易な発想である気がする。
たとえば休講情報を携帯で確認できるなんてシステムがあれば、一時間かけて自宅から通ってくる学生は大助かりだろう。しかし、レポートや入学試験にそれを利用するというのにどんなメリットがあるのだろう。
前出の広島国際大学の田村教授が実施した文字入力速度テストでは、手書きの清書より携帯での入力のほうが早かった学生が多くいたとのことだが、便利や効率を優先する風潮が駆逐するものについても考える必要があるのではないだろうか。
毎夕、讀賣新聞の『新日本語の現場』で言葉を知らない、漢字を書けない若い世代の話を読んでいるとつくづくそう思う。

【あとがき】
男だから女だから、というのはよくないのだろうけど、実際「絵にならない」「似合わない」というのはある。男性が歩きたばこをしていたら、人の迷惑や周囲に与える危険を認識できない人だと判断するが、歩きたばこをする女性を見かけたらマナーの悪さ以外にも感じるものがあります。人前で携帯メールにふける男性に興ざめするのもそれと同じです。