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2003年02月03日(月) この世で一番悲しい恋

脚本家の北川悦吏子さんのエッセイの前書きに、「恋愛を語るのはなにを語るよりも厳しい」とあった。
なぜなら、「どの面下げてこんなこと言ってんだ?」ともっとも言われがちな分野だから。彼女は雑誌などで恋愛についての取材を受けるとき、自分の顔写真が載るか載らないかをかなり気にするのだそうだ(彼女は不細工ではないが、美人でもない)。
なるほどなあと頷く。だって、私も書店で秋元康さんの恋愛指南書を見かけても手に取る気になれないんだもん。
「『恋について僕が話そう』?いや、いらんよ」
と間髪入れずつぶやいてしまう。愛だの恋だのを説いたものを人に読ませるには経験うんぬんより、まずそれなりのビジュアルが必要なのかもしれない。だってそこに説得力がかかっているから。
そう考えると、面が割れていないことはすばらしい。私もここでちょくちょくその手の話を書くけれど、「あんたに言われたかないよ」とは言われずにすむもんね。

さて、その北川さんのエッセイの中に、「世界で一番悲しいラブストーリーが書きたくて、『愛していると言ってくれ』を作った」というくだりを見つけた。
私はそのドラマを見ていないのだけれど、「この世で一番悲しい恋」と言われてぱっと思い浮かべたのは、池田理代子さんの名作『ベルサイユのばら』のフランス王妃マリー・アントワネットとスウェーデンの貴公子フェルゼンの恋だ。
自分との関係が王妃の身を危うくすると察したフェルゼンは、その愛ゆえに身を引く決意をし、祖国に帰る。が、ほどなく国王一家幽閉の知らせを聞き、彼は命の危険を顧みず再びパリへ。しかし、救出作戦は失敗。せめて王妃だけでも助けたいと迫るフェルゼンに、アントワネットは涙ながらに告げる。
「子どもたちを置き去りにして自分だけ逃げるわけには行きません。私はフランスの王妃として威厳を持って死にます」
身分違い。遅すぎた出会い。死による別離。悲恋の要素をすべて兼ね備えたこの恋。
最近漫画喫茶で久しぶりに読み、「人を愛するって幸せなことのはずなのに。生きては結ばれぬ人をこんなにまで愛してしまうなんて、こんなの全然幸せじゃないじゃないかあ」と号泣した私だ。
とはいうものの、現実には身分違いだとか『ロミオとジュリエット』のような事情で結ばれぬカップルの話は聞いたことがない。私が「これが最大の苦しみではないか」とある程度のリアリティをもって想像するのは、いまだ恋しい相手がすでに自分のことを忘れて新しい生活を送っているという事実に向かい合ったときの心の痛みである。
はじめから思いが成就しないのも、途中で心変わりされるのも、一方的に終わりを告げられるのも、どれもつらい。しかし、相手にとっての私には私にとっての相手ほどの存在感はなかったんだな、もう本当に置いて行かれちゃったんだな……。それを思うときほどせつなさ、虚しさ、悔しさ、焦り、ときには筋違いの憎しみまで動員して胸をかき乱すことはないのではないだろうか。

朝刊のコラムにこんな話が。

「私たちが古里を離れて4年。あなたはもう結婚したの?」
間違いメールだった。反射的に削除ボタンを押し……「あっ!」と叫んだが遅かった。メールは一瞬のうちに消えた。
「もう結婚したの?」という文面は、鈍感な私にも含みが感じられた。でも、発信元のアドレスは消え、相手に届いていないことを知らせることはもうできない。
星の数ほどの出会いとすれ違い。恋人たちのメールが迷わずに届くことを祈っている。


古里の「恋人」に宛てたメールは永遠に届かないだろう。このメールの送り主の胸の鈍痛はまだまだつづくのだろうな……と思うと、こちらまでせつない。

【あとがき】
身分違いの恋はなくても、家柄が釣り合わないとか長男長女でどうしても折り合いをつけることができないとかで、結婚が叶わない恋人たちはいくらでもいますね。私の友人にもそれで別れたのが何人かいます。「縁がなかったってこと。結ばれるべき相手ではなかったのよ」と割り切るにはあまりにも苦しく悲しい。
私も独身時代は「そんなことがあっていいのか。家と家が結婚するんじゃないんだぞ。本人の気持ちが一番大事なんじゃないか」なんて思ってましたけど、結婚っていうのはそんな簡単なものではないですね。自分がその立場になってはじめて理解できることってこの世にはたくさんあるんだろうと思います。