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2003年01月08日(水) 「禁ガキ車」と大人の領分

年末年始、ふたつの実家をハシゴした私。今日はこちら、明日はあちらと飛び回ったのだが、あらためて実感したのがこの時期、街に出回る家族連れの多さである。
帰省客や旅行者でごった返す空港ロビーを、人波をかきわけるようにして駆け回る子どもたち。彼らは黙っては走らないので、騒がしいことこのうえない。
出発までのひととき、航空会社のラウンジに行けば、小さな男の子がパソコンのキーボードを叩いて遊んでいる(自由に使うことのできるパソコンが何台か設置されているのだ)。隣りのパパはネットに夢中で、使いたそうにしている人間がいることにまったく気づかない。搭乗すると、私が座ったワンクラス上のシートにも家族連れがいっぱい。機内に響き渡るカン高い声を聞けば、目を閉じていても子どもたちのはしゃぎっぷりは手にとるようにわかる。荷物受け取り場のターンテーブルで真っ先に流れてきたのはベビーカーだったのだが、その数なんと十八台。道理でにぎやかになるはずである。
私は気短な性分ではないし、子どもというのがすぐに退屈してしまう生き物であることも理解しているつもりだ。とくに乳児が泣くのはどうしようもないことで、おろおろしている若い母親を気の毒に思うことさえある。
しかしながら、では「子どもだもん。しかたないよ」とあきらめられるかというと、それはまた別の話なのだ。幼少の頃を思い出したり、親になったときのことを想像して「お互いさま」と思えればよいのだけれど、そう割り切ることは簡単ではない。
人が決して安くはない料金を払って、新幹線のグリーン車なり飛行機のアッパークラスなりの席を確保するのは、「快適な環境」を手に入れるため。移動のあいだゆっくり眠りたい人もいれば、仕事をしなければならない人もいる。本を読みたい人もいれば、出張帰りでくたくたの人もいるだろう。しかし、そのための環境が本当に「買えた」かどうかは乗ってみなければわからないのが実状である。
海外に出かけるとき、クラスをアップグレードすることがあるけれど、飛行機に乗り込み自分のシートの近くに小さな子どもを見つけると、どきっとしてしまう。
すべての子どもが騒ぐわけでないことはわかっているし、きちんと注意をする親がついていることもある。が、「ハズレた……」と唇を噛むことのほうがずっと多いのは事実なのだ。何倍もの料金を払ってこの席かと思うとき、私の胸はやりきれなさでいっぱいになる。
以前、空港のチェックインカウンターで「家族連れの席から離してください」と申し出ている男性を見たことがあるが、おとなげないとは思わなかった。

新年早々友人がパチンコに出かけたところ、子どもたちが狭い通路を駆け回り、店内は大変な騒ぎだったそうだ。
「音はうるさいわ、タバコの煙はすごいわ。あんな不健康きわまりない場所に子どもを連れてくる親の気が知れない」
と彼女はあきれ果てていたが、そんな話を聞いても私はちっとも驚かない。夜遅くに居酒屋やカラオケボックスで家族連れを見かけることもめずらしくないからだ。
欧米で大人と子どもの世界が分けられているのは有名な話だ。大人には大人の、子どもには子どもの「領域」があり、大人の社交の場に子どもが足を踏み入れることは許されない。それなりの年令になり、常識と自覚を身につけて初めて子どもは大人の仲間入りを果たすのだ。
欧米の大きなホテルでは親がレストランで食事をしているあいだ、子どもたちは子ども用に設けられた場所で食事をとる。家族なのになぜ別々にされなきゃいけないの、と日本人には理解しがたい感覚かもしれない。
しかし、私はこういうのっていいなと思うクチだ。他人の視線で、「騒動の種は隔離してしまえ」ということではない。「大人のための時間」「大人のための空間」があってもよいではないか、と思うからだ。
わが子が騒いだり泣き叫んだりするのをコントロールする自信が持てないうちは、新幹線のグリーン車や飛行機のアッパークラス、雰囲気のあるレストランの利用は控えていただけたらなあ……。それが偽らざる気持ちだ。

こういうことを書くのはなかなか勇気がいるものだ。「心が狭い」だの「子ども嫌い」だの言われかねない。
数年前、脚本家の内館牧子さんが読売新聞のコラムに「電鉄会社は禁ガキ車をつくるべきだ」と書いたところ、「内館さんは虚しくて、淋しくて、優しくない女性ですね」という内容の電話や手紙が殺到したのだそうだ。
「子連れ出勤」に端を発したアグネス論争の際、アグネス批判に回り、「コワイ女のいびり」だの「子どもを持てない女のひがみ」だのさんざん言われたという中野翠さんも、著書の中でこう書いている。

 それでようやく私はさとったのだった。「子ども」は、今や聖域の中のイキモノなのだ。今や「子ども」は「平和」「健康」と並んで、現代日本の三大神様−−−けっして相対化されることのない絶対的正義になっていたのだと。  

(中野翠 『電気じかけのペーパームーン』)


しかし、私は思う。子どもを「未完成な大人」ではなく、一個の人間としてみる価値観は尊いものだが、守るべき「大人の領分」というものも存在するのではないだろうか。
買った環境は保証される権利がある。当たりかハズレかはフタを開けてみてのお楽しみ、ではあまりにせつない。

【あとがき】
内館さんの「禁ガキ車」はいささか過激すぎるネーミングだったけど、たとえば「ファミリー車両」なんてのはどうだろうか。恩恵を受けるのは子を持たぬ大人だけではない。夏休みや年末年始の期間だけでも設置すれば、これまで「迷惑かけると悪いし……」と躊躇していた親たちも気兼ねなく乗ることができるのではないだろうか。日本は子どもを「未完成な大人」ではなく、ちゃんと「一個の人間」として見るわりに、「子どもなんだからしかたがない」というエクスキューズがまかり通っているような気がします。