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2002年06月01日(土) 読み手のマナー

翻訳家の小林千枝子さんという方の書く映画評が好きだ。ていねいに映画を見ていることが伝わってくる批評は、私の感想と異なるものであっても読んでいて面白い。
さて、小林さんの「辛口映画評」というサイトにはその映画評に対する読者のコメントも掲載されるようになっているのだけれど、それらの中に思わず首を傾げてしまうものが混じっていることがたまにある。
「『ミスター・ルーキー』の映画評を拝見しましたが、いったいどうされたのでしょうか?いくらでも面白く出来る題材を工夫せずに使って作り上げた映画としか思えません。あれを傑作と言い切るとは……ちょっとホントに心配です」
なんだ、これ。思わずつぶやく。
なにかについて書かれたものを読めば、もの思うこともある。「僕はこう思いました」を本人に、また大勢の読者に投げかけるのはもちろんオッケーだ。が、それはその人の考えを正面から受けとめた上での話。
小林さんにとって傑作だったから、そう書いてあるのだ。それに対して「ちょっとホントに心配です」という反応はおかしい。この投稿者は自分の感想が“正解”であるという大きな勘違いをしているのではないか。

いくつものテキストサイトに日参する私は「読ませてもらっている」という気持ちを忘れないように、と常に思っている。卑屈な意味ではなく、読み手として携帯しておきたい謙虚さだ。
まずは書かれた文章そのままに受けとめる。それは書き手に対する最低限の礼儀。自分ならどうだこうだを考えるのはそれからだ。
「いったいどうしたんですか」などというのは内容についての意見ではなく、その映画評自体を否定するもので、見当違いであるとしか言いようがない。それまでの批評が頷けるものばかりだったから、今回も自分が感じたのと同じように書いてくれるものと思ったのだろうか。それはあまりに幼稚な幻想だ。
私は以前、「あなたにはこれこれこんな文章を書いてほしい。これこれこういう話は書いてもらいたくない」という内容のメールを受け取ったことがある。
ある日の日記がお気に召さなかったようなのだが、私は困惑するより驚いた。
「この人はなにか勘違いをしているのではないか」
物事には要求できることとそうでないことがある。失望するのは自由だけれど、「こんなふうなテキストを」なんていうのはあきらかに後者。思うことがあったとしても、口にするのはおかしい。

文章に惚れる、ということがある。私にはひとつ、敬服しているとさえ言える日記サイトがある。
一話一話テーマが立っていて、頭の中で練りあげた上で書かれたとわかるその文章はたしかに私好みだけれど、私がもっとも惹かれているのはその人の持つ“視点”。
どこにでもある日常の風景をそんな角度から眺めるなんて。私はこれまでそんな切り口から考えたことがなかったな……。読むたび、私は軽いショックを受ける。
心が震えて、名乗りを挙げたい衝動に駆られたことも何度かある。メールも五通は書いただろうか。
にもかかわらず一度も送ることができずにいるのは、私の視線を知らせることでその人の肩に余計な力が入るようになってしまったら、を恐れるから。
これだけ繊細な目を持つ人だ。うっかり「期待しています」なんてニュアンスで書き、妙なプレッシャーを与えることにでもなったら、私が悲しい。
考えすぎであることはわかっている。しかし、大事なサイトであるがゆえに触れるに触れられず、存在を明かさぬままひそかに応援していたいと思う。これも私なりの最大級の敬意の表し方なのだ。
敬意を払う、それはなにも堅苦しいことではない。互いに分をわきまえ、書き手は「読みにきてくれてありがとう」、読み手は「読ませてもらっている」という気持ちを忘れない。ただそれだけのこと。
web日記というのは、両者が存在してはじめて成り立つのだから。

【あとがき】
読み手として大事(書き手にとっても親切)なのがもうふたつ。「書き手に過剰な期待をしない」こと。感性が似ていると思って読んでいた人のサイトで「え??」なことが書かれてあっても、失望したりしない。もうひとつは、「『その人の書くものならなんでもいい』にならない」こと。きちんと自分の意思を持って読む、コレですよ。
……え、そんな真剣に考えて読んでないって?さらーっと流し読みだって?そ、そうですか、それは失礼しました。